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福島原発5号機ツアーを続ける経産省職員の決意と覚悟


 ふっと笑って木野さんがゆっくりと話し出す。私は見えないように小さくガッツポーズをして、インタビューを始めた。

「ものすごく長いのですが、経済産業省、資源エネルギー庁。えー、事故収束対応室の廃炉汚染水処理水対策官という役職です。」

 木野さんはあまり笑わない。原発事故が起きて福島へ出向し、それから12年間、住民や漁業関係者、東京電力社員といった多くの人と廃炉について話してきた。ときには罵声を浴びたり、心苦しい思いをたくさん経験してきたのだろう。
以前会った時に、「感情が麻痺してきますよ。」と冗談交じりに言っていた。

 役職を聞くと、気難しそうな人だと思うかもしれないが、木野さんは熱い思いとユーモアを隠し持っていて、それが時々言葉にも表れる。

 また、常日頃から原発や廃炉といった難しい内容を、相手に伝わるように話しているから伝え方がうまい。だから私は彼と話すのが楽しい。まるで学校の図書館にいた先生のような、私だけが知っているお気に入りの先生のようで、ずっと話をしていたくなる人だ。

 そんな木野さんが少し笑って話を始めたから、掴みとして役職の正式名称を聞いたのは正解だった。いかにも省庁らしい長々とした名称だったので、メモを取るペンは止まってしまったが。

 私と木野正登さんの出会いは今年の3月。彼が3年前から実施している、福島第一原発5号機ツアーに参加したことがきっかけだ。廃炉について正しく知ってもらうには、現場を見るのが一番だと考えた彼は、エスコートの資格を取り、ツアーを企画した。

「福島第一原発に勤務している経験が1年以上あり、東電の研修を受けることで、現場に人を連れていくことができます。私にはその権利があるのだからやるべきだと考えました。この資格は普通、社員やVIPのお客様をエスコートするために取るものなので、一般人を案内する目的で取ったのは私しかいませんね。」

 ツアーでは5号機内部の使用済み燃料プールを見学したり、防護服を着て、原子炉の真下まで行くことができる。
5号機は、立ち入ることができない2、3、4号機と同じ構造であるため、どの場所でどのような事故が起きたのか、自分の目で見ることでよく理解できる。

使用済み核燃料プール。中を覗くと使用済み核燃料棒が見えた。
原子炉の真下での写真



 私がツアーに参加した日は、青空の広がる心地の良い天気だった。

鉄筋コンクリートがむき出しになった原子力発電所と、その後ろにどこまでも広がる穏やかな海が視界に入った時、私はその光景に目を背けたくなったが、意に反してじっと見つめてしまった。

事故の映像が頭の中で流れる一方で、青々とした海には、津波を想像させる要素は全くなかったことが私を混乱させたのだった。

 そう伝えると、彼は事故後に初めて福島原発を見た時のことを語った。

「私が原発を見たのは福島に来てから4ヶ月後の2011年7月でした。現場の状況は聞いていましたが、見ないと分からないため、早く原発に行きたかった。実際に、発電所が爆発している光景をこの目で見て、衝撃でした。私は新潟県の柏崎刈羽原発の保安検査官事務所所長を2年間務めましたが、爆発を想像したことは一度もなかった。頑丈な発電所がボロボロになるなんて。」

 学生時代に原子力工学を学び、経産省に入って、原発の所長まで務めた彼にとって、原子力は人生をかけて取り組んだテーマだ。
目の前の原子力発電所がボロボロになっている姿を見たことで、残りの人生をかけてやることが決まった。

「私も責任の一端を担っていると思いました。私が死んでも廃炉は終わりませんが、生きている間は福島県に住み続けて、廃炉を進めることが一番やりたいことです。」

 彼の決断に影響を与えた印象的なエピソードがもう一つある。

「避難解除された地区の住民に戻れることを伝える説明会がありました。ある人に『おまえら政府の人間は、説明終えだら東京さ帰ってぐ、わだしらは一生ここだ、家族連れてこっちさ住んでみろ』と言われて、そうだよなって納得しちゃって。やりたい仕事は福島にあるし、私1人くらいは残ろうかなと思ったんです。」

 こうして彼は福島に住み続けることを決めた。それは経産省での出世はできなくなることを意味する。東京・霞ヶ関に戻ることが省庁の出世コースだからだ。
けれど出世よりも、人生をかけてやりたい仕事をすることを選んだ。

 この覚悟が、経産省内でも前代未聞の福島第一原発5号機ツアーを生んだのだった。
東京に戻っていくのが当たり前の環境で、通常業務に加えて、自主的にツアーを実施しようという人は、彼の他にはいなかった。

「経産省内でも悪い反応はなかったですよ。むしろ色んな人を原発に連れていき、理解してもらうための活動なので、大事だよねと言ってもらえました。」

5号機、6号機への道。停止中の文字。



 経産省では他に同じような事例もないため、評価はどうしているのだろうと私が突っ込むと、彼もふっと笑った。本日2回目の笑顔だ。

「半年に一回、業務の目標を立てて成果を報告します。予算100億円を取りましたという成果は分かりやすいけれど、私の場合は理解者が1,000人増えましたと言っても分かりにくい。評価しづらいと思いつつ、成果として書くしかないので。どのように評価しているのでしょうね。でもこの活動を評価しないことはできないので、SからEの評価のうち、B以下ではないでしょう。給与にも反映されているはずですよ、きっと。」


 ツアー開始から3年4ヶ月が経ち、これまで2,000人以上が参加した。参加した人の口コミだけで広まり、現在は2ヶ月先まで予約が取れない状況だ。

 私はこんなにも住民と対話をしている行政関係者を他に知らない。
国は住民の声をあまり聞かずに、自分たちで決めている印象があるとぶつけてみたところ、木野さんの本音が見えた。

行政の役割は決めることです。その過程でどれだけ関係者の話を聞いて議論したかというプロセスが何よりも大事です。国は審議会をたくさんやるけれど、住民の声を聞くことはほとんどない。役所の限界なんです。私たちが進めている原発の処理水に関しては、過去に例がないくらいに多くの人の意見を聞いて進めています。もちろん全員の意見を聞くことはできません。叶えられないという葛藤はあります。それでも廃炉を前に進めるためには、処理水をどうするか決めなくてはいけない。

私が福島にいる意味、それは地元の人の声を聞くことです。叶えられるかは別として、どこに不安があるのかを知り、その不安を解消してあげることです。」

 インタビューの最後に、終わりの見えない廃炉に取り組む、木野さん自身のゴールはあるのか聞いてみた。

「ゴールはないです。日本国民全員が理解した上で廃炉を進められれば良いですが、物理的に全員が福島第一原発を見学することは不可能です。なので、関心を持って来てくれた人に正しい情報を持ち帰ってもらうことですね。その人たちに届けるだけでも時間は足りません。」

「定年まで働かせてもらえるのか、定年後も再雇用で働かせてもらえるか分かりませんが、5年、10年、15年と続けられたらと思っています。」

 そう話す彼に、思わず私は「木野さんは15年後もツアーで説明している姿が思い浮かびますね。」と伝えると、本日3回目のニヤリと笑う木野さんを見てインタビューを終えた。


 2011年3月11日に東日本大震災が発生し、福島第一原発の事故があったことを、私は忘れたことはない。しかし、事故発生から毎日向き合い続けている人の存在を意識することはほとんどなかった。

今日も木野さんはツアーを行い、参加者と対話をして事実を伝えている。

処理水を保管しているタンクは1,000基を超える。
海洋放出予定時期は今夏だ。

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