決めたのは、あなた /月の獣

「月の獣」東京公演(2019/12/7〜12/23)
於:紀伊國屋ホール
作:リチャード・カリノスキー
翻訳:浦辺千鶴
演出:栗山民也
出演:眞島秀和、岸井ゆきの、久保酎吉、升水柚希

*お芝居の内容、結末に触れている部分があります。
未見の方はご注意ください。


本当に久しぶりの紀伊國屋ホール、あまりに久しぶりでロケハンを兼ねて上へ下へとウロウロしつつ開演を待ちました。
2015年の初演以来の日本再演とか、私は初演を拝見していないのですが、前回からキャスト( 石橋徹郎 / 占部房子 / 金子由之 / 佐藤宏次朗・敬称略)が一新しているせいか、演出も変わっているそう。役者の個性に合わせてくる栗山さんらしい演出に期待。

舞台装置は非常にシンプル、アラムとセタが暮らす家の一室ですべてが進行する。
中央に大きく頑丈そうな木のテーブル、その周囲に4つのやはり木の椅子が、家族を象徴するように配置されている。壁際にも椅子がいくつか、そして舞台上手奥には飾られている奇妙な家族写真。
大げさな音響も効果音もなく、時折流れる歌の哀切な響きが砂漠を流れる風のよう。
場面転換もなく、登場する人物はわずか4人。その4人が4人ともとても素晴らしく、実に濃密な舞台でした。

《ストーリー》※公式サイトより
第一次世界大戦の終戦から3 年が経った1921 年、アメリカ・ミルウォーキー。
生まれ育ったオスマン帝国(現・トルコ)の迫害により家族を失い、一人アメリカへと亡命した青年・アラムは、写真だけで選んだ同じアルメニア人の孤児の少女・セタを妻として自分の元に呼び寄せる。
新たな生活を始めるため、理想の家族を強制するアラム。だが、まだ幼く、心に深い闇を抱えるセタは期待に応えることができなかった・・・。
二人の間に新しい家族ができぬまま年月が経ったある日、彼らの前に孤児の少年が現れる。少年との出会いにより、少しずつ変わっていくアラム。やがて彼が大切に飾る穴の開いた家族写真に対する思いが明らかになっていく。


アラムはおのれの思う規範に囚われて生きる人。求道者のようにみえる。あるべき姿は在りし日の父の姿で、失った家族を埋めるものを、そっくり同じ形に埋まるものを探している。そういうピースがあるのだと思っている。まだみつからないだけなのだと。彼の悲愴な願いに、しかし観客である私は同調できない。現代を生きる私には彼の振る舞いはとてもひどいものに思われるけれど、諦めないセタの強さと報われないつらさに寄り添うように息を詰めて見守る。
家族ってなんだろう。今の時代の私は血を受け継ぐことだけが家族ではないと知っている。けれど、それだけが家族だと思う人がいることも知っている。

アラムもセタも、家族を奪われた。方法は違うけれど愛していた、同じように大事な家族。けれど、その喪失は、別の何かで埋められるものではないと、セタは知っているがアラムにはそれがわからない。心に空いた穴をそっくり同じもので埋めないと、そこからでないと始められないと思うアラムの姿に、見ている私は追い詰められていく。本当は幸せになりたいだけなのに。
見ていてずっと感じていたことは、どうにかしてこの二人が幸せになってくれますようにという、祈りにも似た気持ち。その一心で緊迫した舞台を見つめる。

2幕、二人の生活に一人の少年が加わる。空気が変わる。アラムやセタと同じように孤児である彼は、傷ついてはいても、しかし曲げられない健全な魂を持っている。彼もまた幸せであれと願い、そして彼が彼らを明るい方へと舵をきるきっかけになってくれはしまいかと、そんな期待が胸に灯る。彼の姿はまるで希望そのもののように眩しい。
セタが、そしてヴィンセントが口にする素朴な疑問に、時折はっと胸を突かれる。求めているものはこんなにもシンプルなものなのだ。二人は血のつながりはなくとも、親子のようによく似ている。


少女から大人の女性へ、そしてヴィンセントが現れてからは母親の顔へ、セタはどんどん変化していく。その姿は実に鮮やかだ。過去へとどまらない、前を向く力。その様子をこんなにも自在に演じてしまう、岸井ゆきのという女優の凄さに圧倒される。
従順であることを求め、そうであった筈の妻が、子供を背に大人の女性として自分に向かう強さにたじろぐアラムの顔が忘れられない。知らないものを見たような驚きと、取り残された者の寂寥が滲む、その顔。こんなにもひどいことをしているはずのアラムのことをそれでも嫌いになれないのは、彼もまた、酷く傷ついていることが痛いほど伝わってくるからだ。だから彼にも救われてほしいと願うのだ。それが伝わるのもまた役者の力なのだと思う。

自分は二人の証人、と述べる語り部の老紳士は、時に微笑ましく、時に痛ましげに、彼らの様子をただ静かに見守っている。そして時に、記憶をなぞるかのように彼は動き、彼が彼らを愛おしく思っているのだと気づかされる。彼らとともに泣き、笑い、苦しむ、離れたところにいるようでいて、心は彼らに寄り添っている。

物語のクライマックス、ようやく苦しさが昇華される時がもたらされる。枷を外し荷をおろしたアラムと、彼を抱き受けとめるセタ。射し込む一条の光に浮かび上がる彼らの姿は、まるでイコンのように美しくどこか宗教画を思わせた。この時のためにこの芝居を見てきたのだ。

呪縛の解かれたアラムはひどく穏やかな貌をしていた。きっとこれが彼の本質なのだろう。敏いヴィンセントにはそれがわかっていたに違いない。だってヴィンセントは初めからアラムに惹かれていたではないか。命を受け継ぐとか、そんなこととは関係なしに、アラムという男は子供好きなのではないかとも思う。


物語の中盤、セタは云う。決めたのはあなただ、と。苦しく、絞り出すように、悲痛な声で。選んだのはあなたなのだと。
しかし決めたのはセタなのだ。心を閉ざすことなく、諦めることもせず、アラムと家族になろうと決めたのはセタなのだ。1幕の最後に、セタは決意する。アラムと本当の家族になろう、と。そうしてついにそれを成し遂げる。そのセタの強さに、アラムも、ヴィンセントも、そして見ている私も救われるのだ。

普遍的な、と演じる人たちは言っていた。
これは普遍的な家族の物語。そして普遍的な、人と人との繋がりの物語。
それから、自分の痛みや喪失とどう向き合うのか、どう乗り越えるのか、そんなことを色々考えさせられるお芝居だった。

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