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【短編小説】ESCAPE LOVE ~シブヤの海に浮かぶ城6/6(最終回)

前回のお話

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 6

 四月の中旬だとはとても思えないくらい、急に暑くなったその日に、私はT女子大に行った。待ち合わせ場所に行くと、社員の人たちが既に車で来ていて、折りたたみのテーブルを設置し、その上にパンフレットやケア用品を並べていた。キャンペーン販売用の蛍光色のナイロンのウインドブレーカーを着ると、額から汗が流れ出した。
 忙しく働きながらも、私は一日中落ち着かずに人の流れの中にカオルさんの姿を探していた。ヒロキ君の彼女に会えると思うとなんだかワクワクして、子供の頃のことを思い出してひとりでニヤニヤしたり、吹き出したりしながら、でも、あんなことを言ったらヒロキ君は怒るだろうからやっぱりやめとこうなどと考え、そのうちに私は、ヒロキ君がもうこの世にいないってことをすっかり忘れていたのに気づいて、愕然とした。
 
 空気が少しだけ冷えてきたのと同時に、客足も途絶えがちになった。店じまいにはまだ早いけど、片付けに手間取らないようにテーブルの上にあるものを整理整頓し始めたところに、カオルさんがやってきた。いまどき誰も着ていないような濃いグリーンのタータンチェックのワンピースに、ローファーとパンプスに中間みたいな靴を履いていて、それが大柄な体にとてもよく似合っていた。
「フミエさん、はじめまして。って、初めてって感じはあまりしないけど」
「あ、はじめまして。私も覚えてる。お葬式のときにあまりに様子が変だったから」
カオルさんを目の前にしてみると、あのときのことを、私ははっきりと思い出すことができた。心がそこになくて、思考がすべて停止している、そんな感じだった。
「そりゃ変にもなるわよ。彼氏が突然交通事故で死んだら」
 この一年間、カオルさんは一体どんな気持ちで過ごしてきたのだろう。想像しようとして、でもやめた。安易に想像して、同情するようなものではない、となぜだかそう思った。
「大野さん、知り合い?」
社員の人にそう聞かれた。
「ええ、まあ」
とりあえず、知り合いということにしておいた。
「今日は、片付けも人手があるから、上がっていいよ」
「うわっ、いいんですか。それじゃお言葉に甘えて」
 私は素直に申し出を受け入れ、ウインドブレーカーを脱いだ。あんなに一日中暑かったのに、脱ぐとひんやりして、なんだか心もとない感じがした。
 
 私とカオルさんは、大学の寮内のカオルさんの部屋に向かった。いきなり部屋に押しかけるのもどうかと思ったけどカオルさんは私に見せたい物があるというので、言われるままについていった。
「ごめんなさいね。会っていきなり拉致するみたいで。でも私の部屋でないと、ちゃんと順序よく話せないような気がして」
 大学の構内だというのに、鬱蒼とした雑木林のようなところを抜けると、公団のような建物が見えてきた。カオルさんは二階に住んでいた。
「見てくれは古いんだけど、居心地はなかなか悪くないのよ。ただ問題は……男子禁制だってこと。まあ、今となってはもうどうでもいいことだけど」
 カオルさんは、部屋をごちゃごちゃと飾り立てるタイプの人ではないようで、すっきりした感じの装飾らしきものはほとんどない部屋だった。唯一の装飾品らしきものといえば、壁に貼ってあった、海の上に浮かぶお城の写真だ。カレンダーか何かから、切り取ったもののようだった。どこかで見たことがあるような気がした。どこで見たんだろう。
「それ、どこだか知ってる?」
 フィルターの中に入ったコーヒーの粉に少量の熱湯を注ぎながら、カオルさんが私に聞いた。コーヒーの香りが漂ってきた。どこかで見たのは思い出せるんだけど、どこで見た写真なのかは思いだせない。
「モンサンミッシェルっていう、フランスの有名な修道院なの」
 モンサンミッシェルだって? どこかで聞いたことがある。そういう名前のお店がどこかにあったような気がした。
 
「それにしても、もうすぐ一年になるのよね」
「そんなに経つなんて、信じられない」 
二人がけの丸テーブルに座って、カオルさんが入れてくれたコーヒーを飲んだ。今日初めて会ったのに、昔からの友達のような気がした。
「ところで、フミエさんに謝らなきゃならないことがあるの。ヒロキはしばらくフミエさんに対してなんか冷たくなかった?」 
 思い出してみると、事故に遭うまでの一年はゆっくり話すこともなかった。冷たかったというより、なんとなく機を逸したんだ。従兄なんだし、東京にいていつでも会えると思って安心していたのだと思う。
「そんなことないけど。いつでも会えると思うと安心しちゃって。親戚だから。でも、誰にでも何時でも会えると思うのは間違いで、会おうと思わなければ誰にも会えないんだって、ヒロキ君が事故に遭ってから、考えが変わったの。もっと会っておけばよかったなんて、いまさら思ってももう遅いんだよね」
 私の話を聞きながら、カオルさんは、カップの中のコーヒーをずっと見つめていた。私の見えない何かがカップの中に入っているかのように。
「私が、フミエさんにはもう会わないでって言ったの。悔しかったから」
「悔しかったって、どういうこと?」
彼女のことは、どこもかしこも可愛いって、すごいのろけぶりだった。そんなカオルがいったい何を悔しがる必要があるんだ。……って、ヒロキ君が私に言ったのはいつだったっけ。
 突然思い出した。ラブホの名前が、モンサンミッシェルだった。
「やだー、思い出した。それってもしかしてラブホに行ったから?」
「何かにつけて従妹のフミエちゃんの話ばっかり聞かされて、とどめはラブホ。私とどっちが大事なのって詰め寄ったの。あんなことになるなんて思ってなくて……本当にごめんなさい」
 そんなこと黙っていればいいのに、言っちゃうところがすごくヒロキ君らしいと思ったら、涙が出そうになって、私もコーヒーカップの中身を凝視した。あの、渋谷観光のハイライト。
「普通彼女には言わないよね。従妹とラブホに行ったなんて」
 そう言って無理矢理笑った。
「私たちもそこに行ったの。105号室、なんだか、慣れた様子だったんで、問いただしたの」
「同じところに彼女を連れてく?普通。お金払わずに窓から逃げたのに。本当に変わってるっていうか、でも、それって変わってるんじゃなくて、罪滅ぼしのための再利用なんだよね。人が良すぎる」
 
 あのときの妙な居心地の悪さとか、あの頃のひどかった劣等感とか、ヒロキ君ならいいやっていう妙な安心感とか、カオルさんの話を聞いたときの、うらやましいのを通り越して呆れた気持ちとか……そんなことを一気に思い出した。
「え、その、窓から逃げたって? 何のこと?」
 また泣きそうになってテンパっている私に、カオルさんは、間の抜けた声で聞いた。
「聞いてないの? 窓の外の柵が壊れてたんで、脱出したの。何を利用したわけでもないし、お金は払わなくてもいいかと思って。無銭飲食、じゃなくて、なんていうんだろう……無銭休憩?」
「え? それ知らなかった。私もやってみたかったな。ラブホの窓から逃走」
 私たちは笑った。永い間笑った。二人してテーブルの上に突っ伏して笑った。笑いすぎて涙が出た。涙はあとからあとから出てきて止まらなくなった。
 テーブルから顔を上げると、カオルさんは、壁の写真をじっと見詰めていた。
「いつか行ってみたいわね。フミエさん、一緒に行かない?」
 私とカオルさんは、涙でぐしゃぐしゃの顔を見合わせて、今度こそ本当に笑った。
 
                             (了)                                  
 


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