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【短編小説】ESCAPE LOVE ~シブヤの海に浮かぶ城4/6

前回のお話

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4

「ヒロキ君ちょっと、見てこれ……誰か逃げたんだよ。ここから」
「すげえ力だな。この鉄棒ひん曲げるなんて」
「なんかさあ……犯罪の匂いがしない?ここで誰かが殺されて、犯人逃走」
「ってか、金払わずに逃げたんだろう。ただ単に」
「……私たちも逃げよっか。もう見学はさせてもらったし」
「そういうの、犯罪っていうんだぜ」
「だって、シャワーもベッドも使ってないんだし、逃げたって何の損害も無いと思わない?」
「いや、俺達がこの部屋に居る間には、この部屋は使用中だから、他のお客に売れない。そういう意味での損害はある」
「まあそう言わずに、逃げようよ。そんなの大した損害じゃないし、この窓見て逃げたくならない人なんていないと思う」
警報機が、とか、防犯カメラが、とかぶつぶつ言っているヒロキ君を置いて、フェンスに足をかけた。むわっとする蒸し暑さを感じて、そうか、部屋の中はエアコンが効いていたんだな、と思う。幸いなことに、通りを歩いている人は誰もいなかった。それにしても、柵ぐらい直せばいいのにって、みんなほかのことに夢中で窓なんか開けないんだろう。ここで警報機が鳴ったらどうしよう。急に心配になった。こういうところって、やっぱり経営には強面の人が絡んでて、弱みを握られて一生ここで客を取られるとか。

 脱出は拍子抜けするくらいに簡単だった。フェンスをくぐりぬけ、通りに着地しても、何も起こらなかった。立ち止まっているのも不自然なのでゆっくりともときた方角に歩いていたら、ヒロキ君も私に続いてちゃんとふたり分の荷物を持って脱出してきたので、ふたりで百軒町の方まで歩いて道玄坂を下った。ラブホの窓から逃走。これを渋谷観光のハイライトと言わずなんと言おう。
 
 それから、ヒロキ君に電話しようと思いながらも期末試験があったりして、なんとなくタイミングを逃した。終わってから電話しようと思っていたら、リョウコ伯母さんの家に行く用があったので、そのときに会えると思ってしなかった。行ってみるとヒロキ君は出かけていた。そういう感じのすれ違いが重なって、またすっかり疎遠になってしまった。そしてまた電話を掛け辛くなった。従兄だから、いつでも会えるだろうと思うと、なんとなく連絡するのを、後回しにしてしまうのだ。
 
 彼女がいるというのに気兼ねしてしまったというのもあった。もし私に彼氏がいて、その人が年の近い従妹とちょくちょく遊びに出かけていたりしたら、あまりいい気はしないんじゃないかと思った。どこもかしこも可愛いって、ヒロキ君がベタにほめていた、モデルみたいに綺麗な彼女を勝手に想像して、やってられないなあ、と思ったり。でも、ヒロキ君のほうこそ、また会おうって言った癖に、電話の一つも掛けてこない。やはり、あのとき、悪ノリしすぎしたのがいけなかったのだろうか。
 
 そうこうしている間に、私は三年生になり、大学受験のことを真剣に考えなくてはならない時期になった。ヒロキ君とはお正月ぐらいにしか会わないまま、大学受験の大詰めに突入し、何とか希望していたレベルの私大に合格することが出来た。私は高校を卒業し、大学生になった。人生とは、そう簡単に思い通りには行かないものの、心配するほどひどいことにはならないものだと、その頃は思っていた。

 しかし、予測もしなかったようなひどいことは何の前触れもなく突然やって来る。気が付く間もなく、唐突に。
 
 その電話に応答したのは私だった。大学生活にもやっと慣れてきた五月の連休明けのことだった。明け方、その電話にたたき起こされて、何がなにやらまったくわからないまま、受話器をもぎ取った。父も母も眠りが深いのか、夜中に救急車などが通りかかっても起きるのはいつもわたしだけなのだ。
「もしもし」
時計を見ると、朝の四時半だった。
「……フミエちゃん?」
リョウコ伯母さんだった。
「ヒロキがね……事故にあったの」
抑揚がまったく感じられない平坦な声だった。
「ヒロキ君が? 大丈夫なの? 伯母さん、今どこ?」
「……駄目だったの」
「駄目だったって、どういうこと? ね、伯母さん、どこに居るの?」
 何とか病院名だけを聞き出すと、すぐ行くとだけ言って電話を切った。

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