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【R18】短編小説 白いロープ ――挫折と、伴走と、恋と、再出発(サンプル)

【あらすじ】
 梨香子は陸上部に所属する大学生で、オーバートレーニングによる心身の不調で家に引き籠もっている。  
 誰かのためになら再び走ることができるのではないかと思い、伴走ボランティアを始め、視覚障がい者の川崎に出会い、フルマラソン出場のためのトレーニングを始めるのだが……。

【本文試し読み】

 1

 昨日まで、その白いロープは私にとって、とても大切なものだった。
 私の手元には一メートルの白いロープを輪にしたものがある。正確に言うと、それは私にとってではなく川崎さんにとっての大切なものだ。いや、川崎さんにとってもそれはそれほど重要なものではない。それはどこにでも売っている何の変哲もないロープで、そしてその端を誰が持つかというのも、大きな問題ではない。明日のレースでは、走友会から新しい伴走ボランティアが川崎さんのところに送られてくるはずだ。
 世話役の福田さんは、
「S大陸上部の一万メートルの選手だっていうから、期待してたんですけどね」
 って言って頭をひねるだろう。新しい伴走ボランティアは、おそらく川崎さんと同じくらいの年の男性で、私よりずっと伴走に馴れていて、川崎さんは狙っていた三時間四十五分のタイムを達成するはずだ。つまり私にとっても、川崎さんにとってもこのロープは不用品だということだ。
 捨ててしまえばそれですべてが終わりなんだと思う。私は明日からひとりで走るかも知れないし、走らないかも知れない。伴走ができたのだからひとりで走れないはずはない。それだけでも伴走のボランティアをやった甲斐がある。何しろ、私は足が竦んでしまって、まったく走れなかったのだ。
 
 川崎さんに初めて会ったのは、まだ残暑のきつい九月のはじめのことだった。朝早くにK公園の駐車場で待ち合わせをした。K公園は私の家から二キロぐらいのところにあるので、私はそこまで走って行った。久しぶりに走ったにもかかわらず、汗ひとつかかなかったし、心拍数もほとんど上がらなかった。高校生の時は、私の体は人と造りが違って、いくらでも走れるのだと本気で思っていた。それが大きな間違いであるとわかったのは大学一年の秋のことだった。
 川崎さんは、お母さんらしい中年の女性が運転する赤の軽自動車に乗ってやってきた。車が駐車場に停まると、ランニングウェアに黒っぽい眼鏡をかけた三十を少し過ぎたくらいに見える男の人が窮屈そうな助手席から降りてきた。黒い眼鏡以外は公園でよく見かける普通の市民ランナーのように見えた。不躾にも脚を見たらけっこうきちんと走り込んでいる脚をしていた。まず脚を見るなんて、グラビアアイドルをチェックする脚フェチのオタクみたいだけど、長年ランニングのことしか頭になかったので、他にどこをどうチェックしたらよいのかがわからない。
「川崎さんですか?」
 と声をかけて、その人に近寄った。それからちょっと迷ったけど、握手をするように手を握った。
「香田さんですね、川崎です。よろしく」
 川崎さんはそう言って、口許だけで笑った。私も作り笑いを浮かべてみたけど、そんなことをしても意味がないことがわかったので、川崎さんの首の辺りを真顔で漠然と見た。その辺が特に見たかったわけじゃなくて、これは私の癖だ。それから、どこをどう不躾に眺めても川崎さんから咎めだてる視線が返ってくることはないんだ、と思い直して、もう一度脚の筋肉をじっくりと見て、どこでどうやって練習しているんだろうと、少し不思議に思った。
「それじゃあ、走りましょうか」
 そう言って、私は川崎さんに白いロープを握ってもらった。K公園のジョギングコースは二キロ六〇〇メートルの周回コースなので、四周すれば約十キロになる。コースを指定してきたのは川崎さんだった。何度か他の伴走者と走ったことがあるので、伴走が初めての私とでも無理なく走れるだろうという配慮からだった。
 最初の一周は上手く伴走できるか不安で、走友会の人に教えてもらったことを頭の中で繰り返していた。ロープをしっかり握って、二人三脚をするみたいに、腕の振りをそろえて、走者より、半歩ほど下がること、曲がる時は十メートルほど前から一メートルごとにカウントダウンをすること、路面の勾配の始まりと終わりや、曲がる方向と角度を言うこと。私の心配をよそに、川崎さんは緑のウレタン舗装のジョギングコースをまるで私を先導するみたいにすいすいと走り、見えもしないのに私のランニングフォームを褒め(足音でわかるらしい)その上、K公園の植物と野鳥の分布の説明まで始めた。いったい伴走されているのはどちらなのかわからなくなってくる。一キロ五分くらいのペースで走り始め、淡々としたイーブンペースで同じコースを四周した。
「やっぱりちがうな、外を走るのって」
 川崎さんは、そう言うと腰につけたベルトからドリンクボトルを取り出して、飲んだ。
「香田さんは?」
「あ、大丈夫です」
 それほど喉は渇いていなかった。じんわりと汗はかいているけど、流れ落ちるほどではない。十キロを五十分以上かけて走ったのは初めてだ。黙っていないで何か言おうと思って、何かとんでもなく不躾なことを言ってしまったら困ると思って、緊張した。障害がある目のことについて軽々しくくだらない質問をしてはいけないのだろうと思ったからだ。

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