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絵から見る教育と性差。まじめな話 - 2

音楽学学科所属のわたしですが、今学期は歴史学科近世史専攻の「『人間関係の歴史』について『家、家族、ジェンダー』に焦点を当てながら考察する講義」に出席しています。毎回「そういう視点で歴史/史料を見るのか!」という驚きと喜びで胸をいっぱいにして講義室をあとにしています。ジェンダー史に詳しい先生でもあるので、ジェンダー/性について触れる場面も多く、シニア聴講生*を中心に、多くの参加者から質問が出て、いつも大盛り上がりです。

(*シニア聴講生:大学のいくつかの講義は、生涯学習の一環として、シニアの聴講希望者に開かれています。講義室が少し懐かしい香りになるので、結構好きです)

毎回本当に楽しいのですが、ここ最近聞いた「教育」に関する話が特に面白かったので、ちょっと覚え書き程度に綴ります。

タイトル/マガジン名は「まじめな話」となっていますが、このシリーズがたぶん一番まじめではないように思います。ご了承ください……。


子どもは小さな大人

「家族」や「家」、「ジェンダー」の定義は時代や地域によっていろいろ、という話もこれまでの講義で話されてきたのですが、ひとまず置いておいて、近世ヨーロッパで子どもといえば「息子」と「娘」とがいて、それぞれ異なる育てられ方をしていました。この絵を見てください。

Jonas Dürchs, 1770年頃

1770年頃に書かれた絵です。右側には母親と娘たち。左側には父親と息子たちがいます。同性間ではほとんど同じ服を着ています。父は家長という立場なので、息子たちとは少し違う服を着ていますが、子どもたちは年齢にかかわらず全く同じ服。女性たちも、母は「既婚者」なので頭に頭巾のようなものを被っていますが、それ以外はみんなお揃いです。

子どもは基本的には「小さな大人」という認識で、今の感覚とは少し違いました。よくある「幼い皇帝の絵」なんかも、可愛いから絵を描かせるというのではなく、未来のリーダーの姿として描かれるので、大人の皇帝が身に着けるものの「ミニ版」を着けているわけです。

持ちまくりチーム男子&持たなすぎチーム女子

この絵をもう少しよく見てみると、男性たちが集まる画面左側には様々なものが描かれているのが分かります。テーブルの上には、定規や分度器、コンパスなど筆記するための道具。その下には地球儀、そしてヨーロッパ生まれではなさそうな動物もいます。

画面中央、キリスト像の左に置かれた植物は「アガベ」といって、テキーラの原料になるメキシコ原産の植物なのだそう。その横には生きていない動物も……蛇や魚、亀やイカかな?
(講義ではドイツ語でnicht mehr lebendige…つまりそのまま「もう生きていない…」と呼ばれていました笑)

さらに左に目をやると、薬品の瓶らしきものがぎっしり並んだ棚、大きな本が詰められた本棚、そして、時計が見えます。父の足元には教会を連想させるパイプオルガンのパイプが立てかけられています。彼が手にしている紙には、息子たちの名前が書かれています。

これらが意味するのは、この家族の男性たちは「教養」を持った身分の人間であるということです。

というのも、この頃のヨーロッパというのは、大航海時代があって、急速に「世界」が広がった頃です。舶来の動植物や食べ物、飲み物、道具や織物などは、新しい世界を表わす最先端というイメージのあるものでした。

余談ですが、ちょうど同じような時期(18世紀前半)に、オランダの興行師がインドから来たインドサイの「クララ」を連れてヨーロッパ中を旅してまわっていたという記録が残っています。遠くに連れてこられたのに、クララは長生きして、1750年頃のロンドン巡業中に亡くなりました。バッハがいたライプツィヒにも来ているので、もしかしたらバッハもクララの存在を話には聞いていたのかもしれません。

こちらがクララの絵です。鎧がかっこいい~。

サイのクララ

さて、話を戻して……。

上の家族の絵では、学問に関連する本や道具だけでなく、ヨーロッパにはいないような動植物や、広い世界を思わせる地球儀を描かせており、「最先端の知識を持ち合わせた教養のある家庭」であることを表わしている、と読み取れることを確認しました。

さて、女性側はどうでしょうか。

講義で先生がそう問いかけると、どこからか「Nix (≒Nichts, nothing)」という声が聞こえてきました。それを受けて、先生も少し笑って「そうですね、何もないですよね」と答えます。

後ろのベッドに横たわるのは亡くなった前妻で、後妻が娘の名前が書かれたリストを持っている……というくらいしか言及できるところがありません。何もないのですから。

ちなみに、画面右側の上につるされているのを「箒ですか?女性が家事をしなければいけないと示しているのでしょうか」と発言した学生がいましたが、これはカーテンの装飾です。こんなところに箒がつるしてあるのも変だし、もしあったとしても絵に描かせるなんてことがあってたまるかと思いつつ、気づいたことをどんどん発言するドイツの雰囲気はいいなとも思いました。

じゃあ、女性は何もしなかったのか?綺麗なお花のような存在だったのか?というと、もちろんそういうわけでもありません。

男女別の教育

Franz Philipp Florin, 1702年, 50頁

こちらの絵は1702年に描かれたものです。家庭教師(Hauslehrer)が立ちながら、ある家の息子たちを指導しています。そばの机には直角定規も見えますし、家庭教師の右手には何やら図形の書かれた紙が見えます。
画面の右に座る成人男性は、この家の主、つまり父親です。どうやら息子のひとりに何かを教えているようです。そばの机では、何かを一生懸命書いている少年も見えますね。

では次に、娘たちの様子を見てみましょう。

Franz Philipp Florin, 1702年, 61頁

右に立つ背の高い女性が母親です。何かを教えているようです。その右後ろでは糸を紡いでいる娘がいます。前面左の少女は機織りのようなことをしています。
その後ろ、窓際の机では何が行われているでしょうか?テーブルの横に立つのは男性の家庭教師です。絵を描いたり、何か大きな本を読んだりしているようです。

やはり女性は「良き妻」であるための教育がほどこされるのが普通だったようなのです。
(日本でもこんな感じの「良妻賢母」を育てることを目標にしている女子校があるとか、ないとか……?)

でも、ちょっとこの話には続きがあります。

学校に通える人はだれ?

「学校に通う」ことができたのは、主に都市部に住む比較的裕福な家の息子たちでした。というのも、農村では農作業を手伝わせるために、親たちが子どもを学校に送りたがらなかったし、子どもを学校に送るにはそれなりにお金もかかったのです。

農村に学校がなかったわけではなく、夫婦などで経営するいわゆる私立学校のようなものもありましたし、そういう学校は「お子さんを1日1~2時間だけ学校に通わせませんか?」などの提案をしたり、絵のついた広告を出したりして、生徒を集める努力をしていました。でも収穫の時期は特に、少しでも多くの人手が欲しかったでしょうね。

農作業をしない都市部でもお金がない家の子は学校に通うのが難しかったのですが、奨学金のシステムもありました。たとえば、教会附属の学校では、聖歌隊の仕事をする代わりに衣食住を確保してくれたり、学費を免除してくれたり、という制度がありました。

女の子たちは学問に触れられなかった?

ああ、女の子は学校へ通えなかったのか……
と落胆するのはまだ早いです!

実は少女が通う学校というのも多くはないものの、存在していました。学ぶ内容に差はありましたが、主にカトリックの地域に多かったようです。

ヴィヴァルディが勤めていたヴェネツィアの孤児院「オスペダーレ・デッラ・ピエタ/ピエタ慈善院」でも、男女ともにそれぞれの生き方にあった教育がほどこされていました。男の子は造船など、女の子は音楽や縫物など、孤児院なので手に職をつけさせてあげるような教育でした。
(それがだんだんほぼ「音楽院」のようになるのですが、それはまた別の話……)

少女用の学校は存在したとはいえ、学ぶのは基礎的な計算や読み書きがメインでした。いわゆる小学校、エレメンタリースクールという感じです。

女の子の高等教育

女性がさらなる高等教育(大学など)に通うというのはほぼ無理でしたが、当時から学問の場は大学だけではなかったので、「教養のある女性」というのはそれなりに存在していました。

そういう学問をする女性たちを「Gelehrte Jungfrauen」というのですが、「Gelehrte」というのは学のある、教養のある、といった感じの意味で、「Jungfrauen」というのは結婚していない(未婚)女性という意味です。

なぜ未婚かというと、結婚してしまえば彼女たちには別の役目「妻業・母業・家政仕事」が与えられるからなのです。結婚するか、好きなことを続けるか。どっちも欲しい女性をしている身としては、胃がキュッとなります。今でも女性の教授などは独身の方も多いんですよね。

そういうわけで、学問をする女性はみんな未婚だったようです。家でも勉強はできたでしょうけど、あまり賢すぎるとか出しゃばりすぎるとか、そういう態度は良しとされていなかった背景もあります。訪問者に学者がいても、議論するとかあまり専門的な話をするとか、できなかったのかな。夫や兄弟の名前をかりて出版をする、なんて作家や作曲家もいますよね。目立っちゃいけないんです。くぅ!

学びはそこら中に

学びは、何も大学などのいわゆる「学問」だけではありません。

学ぶことに貪欲な、意欲的でクリエイティブな女性たちも、もちろん存在していました。

花の描き方や縫物の仕方についてまとめた本を出した女性たち、学びを深めるためのサロンで意見交換の時間を楽しんだ女性たち、幼いころから家業を学び独立した女性たち、料理係として雇われてレシピ本を書いた女性*たち……。

おそらく、わたしたちが思うよりずっと、活躍していたのです。

特に家業の手伝いは、家を運営する上でも大切なことですから、女性も参加します。これは音楽家の家でも同じです。バッハの作品のパート譜を作るとか、写譜するとか、そういう作業は息子や弟子だけでなく、妻もしていました。愛ゆえに、というよりは(それもあるのかもしれませんけど)、家業を手伝っていた感覚なのだろうなと思います。

*レシピ本の人は、たとえばクーナウという作曲家の妻。未亡人になってからも夫の職場で料理係として、住み込みの生徒たちのために料理を作り続けました


ひとこと

こうやって背景を知ると、ただの家族の絵だったものが、急にいろいろな情報を語り始めます。絵の中に重力も感じるようになりますし、絵の中に物語を見出すようにもなります。

また、今回の場合は、女性たちの教育事情が主な話になりましたが、あまり語られてこなかった/単にわたしが考えもしなかった視点から歴史を見るのは、自分の中の「歴史想像図」に色が与えられるような感覚があって胸が躍ります。

来週の講義も楽しみです。また面白いと思った話があったら、まとめてみますね。

この記事は思い出しながらつらつらと書いたものなので、情報に思い違いや記憶違いなものもあるかもしれません。もし何か間違っていたら、こっそりコメントで教えてくださいね。

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