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書道について

 小学校1年生から4年生まで、近所の書道教室に通っていた。親が通わせたのがきっかけだが、兄も近所の子供も通っていた。
教室の場所は、天満宮という神社の横にあった。神社は小さい山の上にあって、100段近くある石段を登ると両側に狛犬がいて、振り返ると町の南側が一望できた。冬の晴れた日には富士山も良く見えて、子供ながらに好きな場所。
 教室は神社の東側にあって名前は白梅書道教室と言った。70代のおじいちゃんが先生で、白髪に眼鏡の静かなたたずまいの先生。
正座をしてお手本を臨書して、納得いくものを書けたら先生に朱を入れてもらいまた書く。先生は言葉は少ないけれど、しっかり朱墨をいれてくれた、何度も何度も。
僕は意味も訳も解らず通っていたが、四角い書道カバンを手にぶら下げて歩くのが、スパイのようでカッコいいように感じていた。
教室に行けば先生の奥さんが色々世話を焼いてくれたり、ペン字で通っている奥様方の話を聞いたりするのも楽しみだった。普段遊ばない近所のお兄ちゃん、お姉ちゃんがいることもあった。
 教室は山の上にあったので、教室の窓から見える景色は、町の東側を一望できた。ある雪の降った日に眺める町は、どの屋根も白い雪を冠していて、帽子を被った小人のように思えた。
 ある時、臨書に失敗して太い線で字を書いたら
「ちから強い、いい線だ」
といつも物静かな先生が急に褒めてくれた。
たまたま居合わせた先生の奥さんも褒めてくれて
「先生はペン字もやっているけれど、書道が一番好きなのよね」
と言ってきた。僕はこの瞬間だけ気を良くしたのを覚えている。
教室は4年生で塾に通うようになってから止めてしまった。
 高校に入った時に芸術選択があって音楽、美術、書道、の三つの選択肢があり、僕は迷わず音楽を選択した。
当時音楽の素晴らしさに目覚めていたので当然の成り行きだったが、音楽選択が人気がありすぎて抽選になり、それに漏れて書道に振り分けられた。
また書道か、と少し残念に思いながら授業を受け始めたが、書道の先生が素晴らしかった。若い女性の先生で高校の先輩でもあった。情熱の塊のような先生で、僕は最初はきれいな先生に褒められたくてのめり込んだ。少なくとも授業中はどの教科よりも集中していた。放課後に教官室に行って教えを請いに行くこともあった。先生に会いたいという不埒な男子も数名いたが、先生は書道の事にしか反応しなかったし、毅然とした態度でかっこよかった。
ただ紙に向かってひたすら書く。こんなにシンプルな事に一生懸命になれる事に興味がわいた。
3年になると芸術選択の授業は無くなってしまい、書に対する情熱も冷めてしまった。

社会人になって白川静先生の本に出会い、漢字の呪の事、甲骨文字、金文、に興味を持つようになる。中国の歴史や、漢字に関するルーツを辿るのは単純に楽しい。現代人はこのルーツを忘れて文字を用いるから齟齬が生じている事が結構あると感じる。(もちろん自分も含めて)
高校の時には大嫌いだった漢文に、今更おののき、発見する事のなんと多い事か。
河合克敏先生のマンガ、とめはねを読んで書道の面白さと魅力を再確認した。

 そして今、いろは書道教室の先生に出会う機会を得て、また書道を始める事になる。先生は北海道在住なのでリモートと添削で習っている。
先生に教えを請うて、早2年以上経つ。先生も同行の志であるというのは、やはりうれしくありがたいことだと思う。
出来れば今まで出会った先生にまた出会ってみたい、書で出会えたら素敵な事だ。
人生において撒いたタネがどのように芽を出すのか分からなかったが、こういう芽吹きもあるのだと心に留めておきたい。


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