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砂時計が落ちるまで【2】

彼女はとても神経質な性質だった。
僕が彼女と出会ったのはいつだったか、そう、あれは多分、今から10年以上前だ。僕らは、本当に偶然が引き寄せたのか如く、それはもしかしたら運命だったのかもしれないけれども、とにかく僕らは出会えた。まだ桜は咲いていない、ほんの少し寒かった季節に。彼女と僕が愛し合うことになるには、そうそう時間はいらなかった。僕らは当然のように同じ時間を刻んで行くことが出来るのだと、ずっと思っていた。そこには、何も確証などなかったのに。もしかしたら、当然に思っていたのは僕だけだったのかもしれないけれど、今はもう分からない。

その神経質な彼女は、とても気が強かった。自分の主張は絶対に曲げず、はっきりとした物言いも、学生の頃はクラスの委員長を務めていた、と言う言葉も本当だったんだろうな、と思った。彼女の口にする言葉は、理路整然としていて、何処にも不確かさのない言葉ばかりだった。

そして、それ以上に、彼女は純粋だった。

大人びた言葉を口にしたかと思えば、その言葉の結末にはとても子供の言うような真っ直ぐな答えが待っていた。とても、純粋だったんだ。僕は彼女と一緒にいるうちに、自分がどれだけ汚されて成長してしまったのか、を思い知らされる毎日だった。彼女の純粋さが、痛かった。

彼女は、精神を病んでいた。
僕は、彼女の汚れのなさは、病んでいることによって成されているのかどうか、ずっと疑問に思っていた。世間の汚れた部分を受け付けられず、全てを否定して、彼女は生きてきてしまったんだろうかと思ったんだ。でも、それは違った。彼女は、世の中がどれだけ汚れているか知っていたし、人間がどんなに汚れていってしまうのかも知っていた。世の中は彼女を病んでいると認識する、けれど、本当は彼女は病んでいるのではない。彼女は、全部知っていた。故に、世間との兼ね合いがうまくバランスを取れていないだけだった。彼女はただ、生きることが難しかっただけだったんだ。

彼女はいつも、見えない何かと闘っていた。
それが何だったのか、僕には分からない。彼女はいつも何かを突っぱねていて、足掻いていた気がする。もしかしたら彼女自身も、それが何だったのかが分からなかったのかもしれない。追いかけてくる何か、そのものを振り払おうといつも、気を張っていた。
僕は、そこから彼女を救いたかった。多分、僕はそれが僕に求められていることなんだろうと思って。だから僕は彼女と手を繋ぎ続けていたんだ。離すことなく、ずっと。
それでも、それは冬の日に終わった、突然、途切れてしまった。

今でも忘れられない、あの日、彼女の冷たい身体が見慣れたベッドに横たわっていた光景。何度、名前を呼ぼうと返事をすることはなく、静まり返った部屋には、時計の針の音と僕の彼女を呼ぶ声しか聞こえなかった。

僕が一番恐れていたこと、彼女が全てのことから逃げてしまうんじゃないかということが、現実になってしまった。

それは、悲しいと同時に怒りさえ感じる出来事だった。どうして僕をそんなに簡単に置いて行ってしまえるのか、僕の存在は、彼女にとって何の救いにもならなかったのかと。何も言わず 、何も残さず、ひとりきりで逝ってしまった彼女に、僕はもう何を言っても、怒ったとしても、悲しんだとしても、何も届かないという現実。僕の存在意義が分からなくなった。毎日を何故暮らさなくてはならないのかも分からなくなった。何度も夢に見た、彼女のあの部屋、何も変わらない空気、匂い、でも彼女だけがいない。

彼女の残していったものを、大切にしましょう、と誰かが言ったけれど、ふざけるなと僕は言った。何も残っちゃいない。彼女がいなくなったら、何もかもは全てなくなったんだ。意味のあるものなんて何ひとつなくなった。進んでいるのは、ただ時間だけで―――。




砂時計の白い砂は、全て落ちた。僕の話はちょうどそこで終わった。僕は、この話をする為にここに来たんだろうか?当たり前のように。
その人は静かに言った。
「お話、確かに聞かせていただきました。では、私の番ですね。」
「あなたの?」
その人はゆっくりと砂時計に手を伸ばし、斜めに傾けて言った。
「あなたがお話してくれたのですよ。私もお話するのが、当然のことですよ、当たり前のことです。語りべは私、時間は流れ始めます。」
そう言って、砂時計を逆さにして静かに置いた。

白い砂は落ち始める。その人は、静かに語りだした。時間は、流れ始める。

<to be continued>

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