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砂時計が落ちるまで【4】

玄関のチャイムを押すと、しばらくしてからゆっくりとドアが開いた。久しぶりに逢った彼女の母親は、僕の記憶の中の姿と何ひとつ変わっていなかった。とても優しい表情、佇まい。
「お久しぶりですね、いらっしゃい。」
そう言って、彼女の母親は僕に微笑んだ。僕は何となく気まずくて、
「お久しぶりです。」
と言って俯いた。
「上がってください、寒いでしょ?」
リビングに上がると、そこは昔と何も変わっていなかった。暖かい木調の家具と、綺麗に整頓された部屋の中。12階からの窓の外の眺めは記憶と同じく絶景だった。少しずつ灯っていく街の灯りが増えていた、夜になる直前の美しい風景。
リビングの一番奥の広い位置に、彼女の写真と花が静かに佇んでいた。僕がそれに目を奪われている間に、彼女の母親は僕と自分のぶんの飲み物を沸かした。
「手を合わせてあげてくれるかしら?」
僕の背中に母親は声をかけた。 僕は振り向いて、
「でも、僕には」
と言いかけた。母親は僕の目を、その優しい瞳でじっと覗き込むようにして言った。
「まだ、そんなこと。」
そして笑った。それはとても優しい笑顔だった。僕はそれをどう受け止めればいいのか分からず、視線をまた、彼女の写真に戻した。
「僕にはその資格はない、ということは変わりませんから…。」
「だからですよ。まだ、そんなことを言うのね。あなたが何をしたというの?」
「僕は何も…」
写真の彼女はずっと同じ笑顔のままだった。それは10年間、変わることはなかった。
「僕は何も…出来なかっただけです。」


いつの間にか窓の外は暗かった。カーテンは閉めることなく、街の灯りが寂しい夜景を広げていた。
「10年も経つと、中々当時ほどにあの子に会いに来てくれる人も少なくなってきてしまって。でも、それは仕方の無いこと。人には人の進む道と日常があるんですもの。誰かの生きる道のほんの少しの記憶にでも、あの子の記憶が残っていてくれたら、それはとても嬉しいわ。あんな短い間しか生きていなかったあの子が、誰かの人生に参加していたなんて、素敵よ。」
テーブルを挟んで、ふたつのコーヒーカップから薄っすらと湯気が上がっていた。僕は、何の言葉を口にするべきか分からず、黙って俯いていた。何を、言うべきなんだろう。
「あなたのこと、ずっと心配してたんですよ。」
「僕のことを?」
僕が顔を上げてそう聞くと、母親は微笑んで頷いた。
「あれから、どうしているかしら、って。あなたはずっと、あの子が死んだことを自分のせいだと…気負っていたでしょう?自分を責めていたでしょう?今でもそうなのかしら、って。10年経って、傷は癒えたかどうか、辛い気持ちが少しでも癒えていてくれているなら、ってね。」
「…どうしてですか、僕は…心配される資格なんて」
「10年前と同じことを言っていいかしら?」
母親はコーヒーカップを手元に手繰り寄せて優しく包んだ。
「あの子が死んだのは、あなたのせいではないの。多分、誰のせいでもない。あの子が自分で選んだ結論だったのだから。あの子が、あなたのせいにしたいなんて思うと思う?」
僕は黙って、彼女のことを思い出す。彼女はきっと、そう言うんだろう、誰のせいでもないと。あのはっきりとした強い口調で。
「多分、生きているうちに洋服のボタンをうっかりかけ違えてしまった、そこからひとつずつズレていってしまったの。生きることと生きて行くことの意味が、それぞれ矛盾してしまったんだと私は思う。」
母親は、彼女の写真のほうに視線を移した。そこでずっと、笑顔でいる彼女のほうに。
「もう、10年が経ちました。あなたはもう、癒やされていいはず。いつまでも傷に縛られていては駄目。こんなに時間が過ぎて、時間だけが問題ではないのは当然のことだけれど、それでも、過去から離れていかなくてはいけない時というのがあると思う。そうしないと、全ての物事の言い訳がそのままになってしまうでしょう?」
言い訳を、して来たんだろうか。僕は今まで生きてきた中で、何かを受け止めようとするときには必ず、彼女のことを、自分が救えなかった人間だったということを理由に、逃げて来ていたんじゃないだろうか。それは、彼女に対しての謝罪にはならないし償いにもならない。僕が全てを受け止めた上で、それでも前を向いて生きていくこと自体が、彼女に対しての本当の意味の愛情になるんじゃないだろうか。彼女を失ってしまった辛さを、逃げずに受け止めるということが。
「時間という薬が、もう、あなたを癒してくれているはずです。」
彼女の母親はそう言って僕を優しく見つめた。僕は顔を上げた。
「…時間薬。」
僕がそう呟くと母親は静かに頷いた。
「どんなに辛い思いもね、時間が過ぎて癒されるの。どんなに辛くても。それは忘れるということとは違う。だから、あなたはもう逃げないで。前を向いて。強く、生きてくださいね。」




「お邪魔しました。」
僕は玄関先まで見送りに出た彼女の母親に頭を下げた。
「また、いつでも来て下さいね。」
「はい、また…必ず来年も。」
ドアを閉めるときに、僕はふと、思い出して
「あの…ひとつ、お聞きしたいんですが。」
「なに?」
「さっき話した、時間薬のこと…僕以外の誰かに話したことはありましたか?」
そう聞くと、母親は視線を他所に向けて首を傾げた。
「どうだったかしら…何しろ、あの子の友達は沢山いたし、当時は皆んなふさぎ込んでしまっていたから。似たようなことを話してあげた子はいたかもしれないけれど。何か気になることでも?」
「…いえ、特に。ありがとうございました。」


夜の国道は車のライトで眩しく照らされて行く。少し裏通りを選んで歩いて、ふと空を見上げてみると、晴れた夜空に奇麗に星座が散っていた。
「前を向いて生きていく、と言うのは、中々難しいのですよ。」
その人はテーブルに肘をつきながら両手の指を組んで言った。
「でも、時間はどんなに努力をしても、願っても、祈っても、流れてしまうものですから。それはどんな人にも平等に。砂時計の砂が途中で止まらないのと同じことです。」
月が浮かんでいた。こんな夜に相応しい、控え目な三日月だった。
「癒されることと、忘れることは違う、というのは良い例えですよね。薬で傷が緩和していくこと、消えてしまう訳ではない。事実、私は忘れませんし、あなたも忘れません。そして、これからまた時間が進んで行くんです。」
その人はテーブルに置いてある砂時計に手を伸ばした。白い砂。時計を傾ける。
「あなたのお話も、私の話も、これから始まります。まずは、あなたの番です。これからの未来を話しましょう。語りべはあなたです。」

砂時計が置かれ、砂が落ち始める。時間は流れ始める。
そして砂は落ち続ける、多分、僕の毎日が続いている限りずっと。


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