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失くした現実

—4—

朝、僕はいつもどおりに仕事に向かった。冬の朝は冷たく、空気が肌を刺す様に冷え切っていた。駅についた僕は改札を抜けてホームで電車を待っていた。空は灰色だった。今にも雪でも降ってきそうだな、と思っていた。電車の着く時間に近づくと、ホームには電車に乗ろうとする人間で混み合いながら列が出来た。人混みに揉まれながら待っているとき、僕の視界にふと、見覚えのあるシルエットが横切った。僕はその影を視線で追って、息を飲んだ。

―澤山香織だった。

長い真っ直ぐな黒髪に、黒の上着に黒のロングスカートだった。間違いない、澤山香織だ。そんなはずはない、と思いながらも僕は人混みに紛れていく彼女を追った。人をかき分けて後に続いていくと、澤山香織は駅のホームの最後部に向かってどんどんと歩いて行った。列を作った人並みに邪魔をされながら、僕は彼女の後を必死に追った。そして、澤山香織はホーム最後部の人のいない場所に立ち止まり、僕のほうを振り向いた。そして、僕に向かって何かを言った。駅のアナウンスと人の声で何を言っているのか聞こえないまま、彼女はホームに勢いよく入ってきた電車に、そのまま身を投げた。

そしてその瞬間、僕の視界は真っ暗になり、何も見えなくなってしまった。

太陽は逆に沈んでいく。西から昇った太陽は空高く佇んだあと、東へと沈んでいこうとしていた。いつも見る光景とは反対側の、黄昏れ。僕はただ、その様子を黙って見上げていることしか出来なかった。全ては逆に進んでいく。時間も空間も何もかもは過去へと。
今までの僕の記憶に残る思い出は、何処へ行ってしまうんだろう。そんな風に僕は考えていた。ツグミという人間と過ごした時間、毎日の繰り返す暮らし、誰よりも幸福だったと信じていた日常は、何処へ行ってしまうんだろう。全ては脆い日々だと気付かずに居た。自分の過ごしている日常が現実ではないなどと、思えるはずがない。
そのとき、僕の後ろに佇んでいる、澤山香織が言った。
「先生、分かりますか?現実なんて夢のようなものだと。寧ろ、どちらが夢でどちらが現実か、なんて重要じゃないんです。」
僕は東に沈もうとしている太陽を眺めたまま、
「君の現実は?結局どっちだったんだろう。」
と聞いた。
「私の現実は、先生とお話した世界が現実でした。でも、先生にとってはその世界は現実じゃないんです。分かりますか?」
「僕にとっての現実じゃない世界に君は居た。でも君は本当に存在したんだろう?どうして…」
僕がそう言って振り向くと、澤山香織はただの真っ黒な影になっていた。影になった彼女は言った。
「先生、世界って沢山あるってこと知ってますか?この世界に生きている命のひとつずつにそれぞれの世界があるんです。ひとつの命にとっての世界が真実であっても、他の命から見たらそれは、どうでもいい世界だったりします。そう考えると、自分が生きている世界に佇んでいる命たち、なんて。それは夢だろうと現実だろうと、ただのフェイクです。」
夕暮れに映った澤山香織の影は、ずっと長く伸びていた。
「君は夢だった世界から現実に戻されて、絶望したんだろう?」
「そうです。」
西の空は暗くなっていた。東の空の黄昏れも、随分と薄くなっていく。
「現実が夢で、夢が現実だったら私も…死にはしませんよ。でも、夢から覚めたら絶望、だったんです。」
「君の見ていた夢は。やっぱり幸せだったのかな。」
「ええ、とても。」
時計の秒針の音が聞こえた。一定のリズムを刻むその音が、何だか残り時間を計っているかのようだった。
「でも、所詮は夢です。それに気付いたときには私にはもう何も残っていなかったんですから。仕方のないことですよ。ほら、先生には影がないじゃないですか。この世界は先生にとっては現実じゃない証拠です。先生の現実には、私という人間は存在しません。」
そう言われて見てみると、確かに僕には影がなかった。影の姿の澤山香織は黄昏が暗くなってきて、その存在自体が薄くなっていた。
「そして、先生の現実には先生という人間も存在しません。先生が今、抱えている記憶の全てはフェイクです。現実には現実の、先生ではない自分が存在していますから。」
「その自分は…今、何をしているんだろう。」
「もうすぐ見えると思いますよ、太陽が東に沈んだら。そろそろお別れです。先生、夢や記憶はいつどんなときだって自分のことを確かに存在しているのだと、信じられるように出来ています。でも、それが出来なくなったときには人間は多分、絶望するんです。そのときそれをどう受け止めるのかは、やっぱり自分で決めないとならないんです。」
澤山香織の影は、にっこりと笑った。
「さようなら先生。またどこかで。」

太陽が沈み、澤山香織の影は闇に溶け込んで消えた。僕はその闇の中からひとつの灯りを見た。

現実という、絶望した世界を。

<END>

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