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その長い夜が明けるときまで【1】

奈々瀬が死んだのは、僕のせいなんだろうか。僕は考えてみた。
それが例え正しい感情だったとしても、誰かを追い詰めてしまうことには変わらないんじゃないかと。だから、尚更思ってしまう。奈々瀬を死なせてしまったのは、僕のせいなんじゃないだろうかと。

季節が過ぎていくのに音は鳴らない。時間が過ぎていくのに音は鳴らない。何も聴こえないまま、僕らは一秒ずつ正確に刻まれていく瞬間を過ごして生きている。太陽が昇って沈んで行くのにも、音なんて鳴らない。だったら一体、僕らに聴こえている音って何なんだろう、と考えていた。ずっと。
そうして僕は分からなくなる。結局、僕らは何を大切にするべきなのか。死ぬために生きているこの瞬間を、どうやって過ごすことが正しいんだろう。

「目に見えないものなんて、全然明確じゃないよ。そんなの当てにならない。」
そう言う奈々瀬の長い髪が、どこからか吹いてきた風になびいた。
「でも、そういう場合は信じるしか選択肢は残ってないよ?それか、捨ててしまうかだ。」
僕は奈々瀬が見ている遠くの風景に目を移した。でも、そこには何も映るものなんてない。
「捨てればいいじゃない、全部。」
奈々瀬は僕のほうに振り向くと、少し微笑みながら言った。
「約束なんて信じられないんだから。言葉なんてただの誤魔化しよ。」
僕はそういう奈々瀬に何か言おうとした。だけど、何も思いつかなかった。何を言ったら奈々瀬に納得をしてもらえるのか、僕はその術を知らないしそれだけのうまい言葉も見つからなかった。
「悠樹は、私のことが大切?」
「勿論。」
そう答えると奈々瀬は細い指で髪をかき上げて笑った。
「その意味が、形になっていればいいのにね。」

ぼやけている答えがはっきりとした形になって見えてくれれば、誰もがそれを大切に守ることが出来るだろう。それでも人間が生活する上では、目に見えないものが多すぎて確信が持てないことが沢山ありすぎる。だから、約束や感情の何もかもはいつも不安定に揺れている。明確にその手で包み込めないからだ。奈々瀬は毎朝、目が覚めると窓の外の朝日を確かめる。晴れている日ならば、ベッドの中からでも太陽が窓の外に見ることが出来る。そしていつも、ぼんやりとした眠気の残った頭で考えて手を伸ばす。その日の光を手に掴もうとして。そして失望してしまう、届かない光を見つめながら。

奈々瀬のアパートの部屋はいつも何かが足りない気がするような、無機質な部屋だった。
フローリングの床にテーブルもない、あるものは8畳間にテレビとベッドだけだった。奈々瀬はいつもそんな部屋の真ん中に座り込んだまま、余計な話しはせずに僕に後ろから抱きしめられていることが多かった。そんなときに一体奈々瀬は何を思っていたんだろう、それすら僕には分からなかった。

「昔ね、猫を飼ってたの。子猫のときに捨てられてたのを子供だった私が拾ってきたの。」
奈々瀬が昔の話しをすることはとても珍しい。その日僕らはアパートの近所で野良猫を見かけた。その後、奈々瀬はずっと、あの猫可愛かったね、と言っていた。
「どんな猫?三毛とか白黒とか。」
「真っ白。柄もなにもない、真っ白な雌猫。尻尾が細くて長くてね、すごく綺麗だった。」
「名前は?」
「シロ。」
「真っ白だったから?」
「そう。」
そう言って僕らは笑い合った。奈々瀬は僕の手に自分の手を重ねると、小さな声で話した。
「でもね、シロは長生きできなかった。可哀相な猫だったの。」
「病気でも?」
「ううん、そうじゃないの。隣の家のおばさんがね、猫が大嫌いだったの。それでシロはいつも隣の敷地に入るとそのおばさんに追い払われてね。ある時、そのおばさんが毒入りの餌をシロに食べさせて。シロは死んだの。」
僕は奈々瀬の痩せた肩を抱き直した。そして
「可哀相な猫だったんだね。」
と言った。奈々瀬は黙って頷いた。
「大切なものがなくなったとき、誰でも心の中が真っ暗になってしまうのは多分、子供も大人も同じね。ただ、悲しいだけで。悲しむことしか出来なくて。」
「うん。」
「自分が出来ることなんて、本当は何もないんだから。…可哀相な子だった、すごくね。」
そう言って奈々瀬は目を閉じた。まるで、もう何もその目に映したくないとでも言いたそうに。

<to be continued>

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