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ファインプレー研究〜専門性より浅く広く

今回は浅い思考で自論を外に出す。

根拠、裏付けのない話だが一理あるならあなたの無駄は無くなる。

そして好きなように種蒔きに集中してどんな花が咲くかワクワクしながら生きればいい。

私は高校時代バスケ部を辞めてから部活を転々とふざけながらやっていた。

科学部に名前だけ所属するつもりで入ったがここでもふざけた。

科学的に筋肉を追求すると言って誰もいない筋トレ施設で初めてのウェイトトレーニングをしてみたり、弓道部に研究の為に体験させてほしいと言い初めて弓道をしたり(とても難しい競技だった)、ファインプレーを研究すると言って公園で野球のグローブとボールを持ち難しいゴロを投げ合い遊んでいた。

そう、研究でもなんでもなくただの遊びでした。
(とても楽しい時間だったのを今も覚えている)

そしてそこから25年経った今、遊びだったはずのファインプレー研究が仮説の一つとして形なった。

今私が思う事は
ファインプレーは無駄からの産物ではなかろうか?
という仮説だ。

ファインプレーは主とする訓練以外の訓練が偶然のタイミングで競技に奇跡的プレーとなって現れたのではないか?と私は漠然と思っていた。
※勿論主の訓練は必須で、主の訓練を怠ればファインプレーは生まれないと思うが。

スポーツで例えると
昔水泳のイアン・ソープという選手がトレーニングでボクシングをしていたのだが、どうやら水泳に活かせる運動のようで水泳という競技で勝つ為に水泳意外の事をする。

これは一見無駄に見えた事がとても有益だった事に気づいた一例と言えるだろう。

私も昔ダーツバーでダーツをしていて練習しても中々上手くならなかったけどジョギングをするようになって久々にダーツをしたら少し上達した。

気のせいかも知れないが私の様な低いレベルではダーツの練習よりジョギングの方が有効だったのではないか?

過去の失敗も頑張れない自分も、笑い話や他者への配慮や優しさとなりコミュニケーション分野ではイアン・ソープのボクシングトレーニングと同じ効果を発揮するかも知れない。

人間関係が人の幸福度の大部分を占めるなら
(定かではないがメンタリスト DaiGo氏動画で言っていた)
コミュニケーションに活かせる失敗や弱さは財産になる事もある。

今私の中でコミュニケーションはとても良く売れる商品でもある。
以前書いた記事にも目をとうしていただけると嬉しいです。

私は専門性が重視される時代に生きていて、もし「万能の天才 レオナルド・ダ・ビンチ」が同じ時代に生まれていても専門家達に埋もれてしまうのでないかとも思えてしまう。

しかしテクノロジーが発展して全てが売物になる時代、多様性が重視される時代では、またレオナルド・ダ・ビンチは万能の天才の名を取り戻すかも知れない。

専門性も大切だとは思うが時に寄り道する事で専門性の新たな扉が開く事もある。

無駄は創造性の種

好きに生きてみる方がより多く種を蒔くかも知れないし三日坊主の方がより多く種を蒔くかも知れない。

今ならくだらない一日も、もしかする人生のファインプレーの種かも知れない。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。


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