馬鹿夜咄 第1話
夏の夜、茨城県の大学の学生寮。寝付けない大学生「僕」は夜中にトイレに立つ。しかし自室の扉を抜けた先は、何故か喫茶店に繋がっていた。そこは喫茶「庚申堂」。奈良のならまちの中にぽつんとある、夜にだけ開いている不思議な喫茶店だった。店主は「僕」に、ここは「眠れぬ不安を抱える人が集まる場」だと告げる。それから毎晩自室のドアは庚申堂に繋がり、「僕」は様々な悩みを抱えて眠れなくなった人たちと言葉を交わすことになる。様々な背景を持つ人の不安に寄り添い、寄り添われる夜の中で「僕」は徐々に安眠を取り戻していく。寝室でスマホを触る全ての人に送る安眠ストーリー。
眠れない。
僕は諦めと共に身体を起こした。揺れで目覚めたスマホが夜中の2時だと教えてくれる。クーラーが効いているというのに、何とも言えないだるさが身体を包んでいた。油のさしていない自転車のようにきしむ身体を無理矢理動かして、両足をベッドから降ろす。ぴと、と冷えた床が足裏に吸い付いた。ふう、と軽く息を吐く。まただ。狭い寮の一室に虚しく響く音が消えないうちに、僕は部屋の入り口付近にある洗面台へと向かった。
洗面台脇のスイッチを押して洗面台の電気を点ける。鏡を覗くと、オレンジ色の暖かい光がぼんやりと、ボサボサ頭の男を照らしていた。
「こりゃ酷い。」
暗い中でも目の下のクマは誤魔化せない程濃く現れていた。着古したTシャツには寝返りの数だけ皺がついている。あまりの惨状に自嘲気味の笑みがこぼれた。
もうかれこれ1週間になるだろうか。まともに眠ることが出来なくなっている。大学に入学してから3年、こんなことは初めてだった。いつも日付が変わる前にはベッドで横になっているというのに、一向に眠気は訪れない。目を閉じてはみるものの、時間が経てば経つほど意識は冴えて研ぎ澄まされてしまう。体勢を変えてみたり、枕を外して寝てみたりしている内に時間は過ぎてしまって、朝日が昇る頃にはすっかりげっそりとしてしまっている。体力が有り余っているのかと思って運動を始めて見たものの、効果はなし。早め早めに医者にかかろうと思いつつ、行かないまま日曜日になってしまった。薬に頼るのは正直気乗りしない所もあるが、こうなった以上そうも言って居られない。明日、朝一で行こう。決めただけなのに、少しだけ心が軽くなった。これなら眠れるかもしれない。その安心感からか、僅かに尿意を感じた。無視しても良かったが、この尿意が膨らんで1時間後に起床となっては元も子もない。気は進まないがトイレに行くべきだろう。僕は自室のドアノブに手をかけた。
今住んでいる大学の寮は、一部屋五畳で水道ありバストイレ無し。ドアの先は廊下で僕の部屋の向かいがランドリー、斜め左が共同キッチン、そして斜め右手に共同トイレがある。風呂とは名ばかりのシャワーは廊下の端と端にひとつずつ。つまり、部屋のドアを開ければランドリーとトイレ、それにキッチンが目に入る。その筈だった。
「え?」
ところが、視線の先に本来あるべき廊下はなく、代わりに小洒落た部屋に繋がっていた。右手にはカウンターがあり、足の高い椅子がいくつか並んでいて、左手にはテーブル席も見える。部屋、というよりも喫茶店が近いだろうか。昔の純喫茶という趣の部屋がそこにはあった。ドアの枠組みの中がその部屋と繋がっていて、ドアの外側は自室のまま。どこでもドアを想起させる光景だ。少し不思議どころか大分おかしい。あり得ない状況を前にして混乱しつつも、脳は冷静にひとつの答えを導き出していた。
「夢、かな。」
当然の推測だろう。これまでの人生で見たことがある夢には、ここまでリアリティのあるものでは無かった。だから違和感があるといえば、ある。でも、これ以上にしっくりする答えはない。それに何よりも、夢を見ているということは眠れたことになる。それが嬉しかった。
これはいい。一週間まともに眠れなかったのは、この極上の夢を見せてくれるためだったのか。扉を閉めてしまえば目覚めてしまうかもしれない。ここは導かれるまま良い夢心地を体験しよう。神様、ありがとう。いるかも分からない神様に礼だけ言って、僕はドアの向こう側へと一歩を踏み出した。
「失礼しまーす。」
境界を跨いだ右足が木目調の床板をきしませる。夢にしてはしっかりとした感触が伝わってくる。恐る恐る残った左足も喫茶店側に入れて、両の足で立ってみる。さっき見た通り、左手に2人がけのテーブル席が2つ、右手にはカウンターがあって席が4つほど並んでいる。薄い暖色のライトが誰もいないカウンターをただ照らしていた。
「誰かいませんかー?」
僕自身の夢なのだから当然と言えば当然だろうが、誰もいないというのは奇妙だった。これが明晰夢というやつなら自由自在になりそうなものだが、いくら頭をひねった所で店内は静まりかえったままだ。
その時、入ってきた扉が音を立てて閉じた。振り返ると、そこにあったのは木目調の扉。よく見ると目線の高さに金のプレートがかけられており、toiletと書かれている。自室の小汚いクリーム色の扉はどこにもない。試しに開けてみると、その先は細長い廊下になっていて、赤と青のマークがついた扉が2つ。本当にトイレのようだ。何度開け閉めしても、さっきまでいた部屋が現れることは無い。夢だと分かっていても、薄寒いものが背を走る。思わず後ずさった僕の視界に何かが映る。それは人のようで、
「こんばんは。いらっしゃい。」
人だった。いつの間にかカウンターの中に人が立っていた。背丈は僕よりも少し低い170㎝くらいだろうか。白いシャツに黒いエプロン、エプロンには「店長」と書かれた銀の名札が付けられている。黒髪はポニーテールにまとめられていて、透き通った白い首筋が露わになっている。外見だけなら二十代後半の女性に見える。ただ、左目にかけたモノクルから計り知れない何かを感じる。そして歪みの無いレンズの向こうからは、ぬばたまを思わせる黒い瞳が僕のことをじっと見つめていた。
こんな時、何を言うべきなのか。ここまではっきりと夢の中に人が出てきたのは初めてだった。夢に出てくる人はどこかで見たことのある人間だけだ、と心理学の講義で聞いたことがある。でも、目の前にいる店主は街ですれ違ったことすら無いと断言できる。左目のモノクルも異質だが、それが無くとも十分印象的な雰囲気を纏った人だった。例えるなら、夜。煌びやかというよりも、一歩路地に踏み込んだら後戻りできなくなるような夜の気配。
いつまでも何も言わない僕を不審に思ったのか、彼女は二度瞬きをしてからもう一度口を開いた。
「どうぞ、好きなところに。」
微笑みながらそう言って、細く長い手でカウンター席を指し示した。低く、ハスキーな声だった。
「あ、ありがとうございます。」
腰掛けると、つま先が軽く床についた。足の高い椅子は少し落ち着かない。所在無さげに視線を彷徨わせていると、スッと目の前にB5サイズの紙が差し出された。ラミネートされたその紙には、ドリンクや軽食の名前がつらつらと書かれている。
「これがメニューだよ。」
メニューにさっと目を通して見る。けれど、特に何の変哲もない喫茶店のメニューといった感じ。異常な展開の連続の中で、これだけが普通だった。
「あ、あの。」
「ご注文かな?」
「え、じゃ、じゃあ、この『本日のコーヒー』で。」
「うん。じゃあ待っていて。」
息つく暇も無く注文を求められて、とりあえず目についたコーヒーを注文してしまった。昔からお店の人と注文以外のやりとりをするのが苦手だ。相手のルーティーンを崩した時に発生する気まずい時間に耐えられない。それにこの店主、初対面なのに凄く気さくだ。距離感が近すぎると言ってもいい。フレンドリーさを売りにしているのだろうか。ただ、僕にとっては距離感の遠い店主よりも距離感の近い店主の方がハードルが高い。本当はここはどこなのか、とか尋ねたかったけれど仕方がない。作業を始めた店主に話しかける勇気もなく、僕は押し黙った。
それにしてもこの夢、僕の夢の筈なのに僕に主導権が無さすぎる。状況はあまりにも夢なのに、頭はどんどん冴えてきていた。コーヒー豆同士が擦れ、砕かれる音を聴きながら、僕はそっと頬をつねった。痛い。もしかして夢じゃないのか。古典的な方法ではあるものの、僕にとっては効果的だった。
そんな僕の様子を見ていたのか、店主は手を止めてこちらを向いていた。
「ここに来るのは初めて?」
「……はい。」
僕が頷くのを確認してから、店主は口を開いた。
「それは失礼しました。ここは『庚申堂』。眠れない人のための喫茶店だよ。」
言い慣れた感じのある口上を聴きながら、そこで初めて僕は店内に充満したコーヒーの匂いに気がついた。鼻から入った芳醇な香りが頭にかかっていた靄を取り払っていく。これは僕の夢では無い。今の店主の言葉がどういう意味なのかは分からない。でもひとつだけはっきりしていることがあった。どうやら本当に、僕の部屋はこの奇妙な喫茶店に繋がってしまったらしい。
庚申堂。頭の中で繰り返してみる。聞き覚えのない単語だ。眠れない人間が集まる、なんてコンセプトなら有名になっていそうなものだけど、SNSで見たこともない。そうだ、スマホで調べればいい。そう思ってジャージのポケットを探るものの、手は太ももに触れるだけでスマホはどこにもない。しまった。たぶん、枕元に置いたままだ。今頃主人の替わりに寝床の番をしているだろう。
すっかり手持ち無沙汰になって店内を見回した。店主はフラスコのような器具にたまったコーヒーをカップについでいる。店内には僕と店主以外おらず、古き良きモダンな喫茶店、という感じだ。ふと、見慣れないものが視界に入ったような気がして、僕の目は入り口付近で止まった。中央に大きな正方形のガラスがはまった出入り口、その右上に何かがぶら下がっている。
本来ならドアベルがあるであろう場所には、白い頭に赤い胴体を持つ人形が三つぶら下がっていた。それぞれ四肢を身体の上で一つに縛られて、紐で縦に繋がっている。赤く丸いものが紐で連なる様は、干し柿に見えないこともない。あれはどこかで見たことがある。そう、あれは確か岐阜に行った時だ。
「さるぼぼ?」
「残念。正解は身代わり猿。さるぼぼはこっち。」
独り言のつもりだったが、聞こえてしまっていたみたいだ。店主の手には後ろの棚に飾られていたさるぼぼが握られている。赤い身体に紺色の頭巾。よく見比べてみると全然違う。じゃあ身代わり猿って一体何なんだ。疑問が更に深まる。
「身代わり猿というのは?」
「ならまちの風習でね。この子たちが願いを叶え、災厄を遠ざけてくれるんだ。」
「そうなんですね。これって、縛られてるんですか?」
「ふふ、いいや。見方が逆だよ。あの子達は木を登っているんだ。」
猿といえば昔話の悪役というイメージが強かったので、てっきり両手両足を縛る罰を受けているのかと思ったらそうではないらしい。言われて見直すと、確かに木を登っている猿の姿に見えてくる。なむなむと手を合わせて、見当違いの予想を立てたことをお猿さんたちに謝っておく。
疑問が解消されてすっきりのはずが、何かが引っかかった。聞き逃してはいけないことを聞き逃している気がする。モヤモヤが広がる僕の目の前にソーサーに載せられたコーヒーが置かれる。芳醇な甘い香りが鼻をつく。
「ではこちらが注文の品だよ。」
「あの、今の話、もう一度聞かせてくれませんか。」
「こちらが本日の……」
「その前です。」
「ならまちの風習で……。」
「そ、それです!!ここって奈良、なんですか?」
「もちろん。ここはならまちのど真ん中さ。」
それが何でもないことの様に、店主は頷いた。ここが奈良。ここが奈良?鹿、仏像、柿の葉寿司。ここがその、奈良?
一拍間を置いて、僕は叫んだ。
「えぇぇぇ!?」
寮から奈良までは500キロ以上ある。寮の扉がよく分からない喫茶店につながっていて、しかも奈良にある。とてもじゃないが信じられない。やっぱり夢なのか。夢じゃ無いとしたら、もっと奇妙なことに巻き込まれていることになる。何故とどうしてという気持ちが虎となり、頭の中でぐるぐると周り、溶け始める。
どちらにしても、このままずっと居てはいけない気がしてきた。こういう妙な場所に迷い込む恐怖映画を何本も見たことがある。大体、長居してしまったり探検している内に脱出の機会を見失ってしまう。そうなった時にどうなるかは想像に難くない。幸いなことに今、店主は僕に背を向けている。よし、3つ数えたら席を立とう。そっと席を立って、入ってきた扉に飛び込む。次に飛び込んでもトイレのままだったら、中で籠城して時間を稼ごう。3、2、1、
「まずはコーヒーを。飲んでいる間に説明するからさ。」
3つ数え終わると同時にタイミング悪く店主が振り返った。引き込まれそうな瞳にじっと見つめられ、浮かせた腰を元に戻す。
「お願いします。」
白く厚いカップの取っ手に指をかけて持ち上げる。一瞬、飲んでしまっていいのだろうかという不安が脳裏をよぎる。昔見た映画で異界の食べ物を食べたばかりに帰れなくなった人がいた。ここが本当に奈良という確証もない。茨城ー奈良間というあり得ない移動をしているとすると、何でもあり得るだろう。ここで飲んでしまえば、二度とドアは自室に繋がることは無くなってしまうのではないか。ただ、そんな意思が揺らぐほどコーヒーは良い香りを醸し出していて。気付いた時にはカップは近づいていて、口に含んでいた。
「美味しい。」
「そうでしょう。先代から変わらぬ自慢の一品だからね。」
ブラックなのにチョコレートの様なほんのりとした甘さが口の中に広がる。酸味も少なくて個人的に好きな味だ。コーヒー自体はよく飲むけれど、味の違いはそこまで分からない。でも、この一杯は今まで飲んだどのコーヒーとも違っていた。初詣の時、家族と飲んだ甘酒みたいな。口当たりがまろやかで腹の底から温まっていく味わいだった。
僕がカップをソーサーに戻したところで、店員さんは話を始めた。
「私は吉祥鹿子。ここの店長。そしてここは庚申堂。住所は奈良県奈良市西新屋町。開店時間は夜の九時から明け方まで。お酒も出してるよ。」
右手の指先は胸元に当てられていて、かなり誇らしげだ。言い終えた後、店主は動物の鹿に子どもの子でかこだと付け加えた。
「僕は馬上翔です。」
「なるほど。まがみ君と言うんだね。」
「あの。夢、とかではなくて現実にある店なんですよね?」
「もちろん。君はどこから来たのかな?」
「茨城です。」
「茨城。それはそれは。遠いところからどうも。」
鹿子さんは茨城をいばらきと発音していた。いばらぎと読む人が多いだけに、少しだけ鹿子さんを信頼する気持ちが湧いた。ほんと、少しだけ。
「あの、僕、そこのドアから入って来ました。」
「そうだろうね。夜、一定の条件下にある人の部屋とあのドアが繋がるんだ。」
あり得ないことが起きているというのに、鹿子さんはそれが世間一般の常識であるかのように淡々と答えた。驚いて欲しいと思った訳ではないけれど、全く驚かれないのはそれはそれで肩透かしだった。肩に入っていた力が抜けて、僕も少し落ち着いた。
「その一定の条件下って何なんですか。」
「条件は2つ。ひとつは、夜眠れていないこと。もうひとつは、心が囚われていること。」
「囚われている?」
「うん。それは後悔かもしれないし、怒りかもしれない。強い感情に囚われていて眠れない人がここに集まるんだ。」
「強い、感情。」
ここに来てしまっているということは、僕も強い感情に囚われているということなのだろう。思い当たる節は……と思考を巡らせ始めたところで、甘い香りが鼻をついた。カウンターの中で鹿子さんが何かを切っていた。香ばしさと洋酒を含んだ甘ったるい香り。
「どうぞ。自家製アップルパイだよ。」
「あ、ありがとうございます。」
白い皿に載せられた一切れのアップルパイ。きつね色の網目上の生地の下には煮詰められたりんごがぎっしりと詰まっていた。美味しそう。アップルパイは大好物だ。でも注文はした覚えはない。手をつけて良いものか迷っていると、鹿子さんがこう付け加えた。
「サービス、サービス。」
言葉と共に両目を細めた理由がよく分からなかったけれど、後から考えるとウインクだったのかもしれない。
「ありがとうございます。じゃあ、頂きます。」
銀のフォークでパイの先端を切って口に運ぶ。しゃくしゃくとした食感と共に深みのある甘さが口の中に広がる。美味しい。寝不足で空いたお腹にケーキが浸透していくのを感じる。合間合間にコーヒーを飲みつつ、食べ進めていく。そんな僕の様子を鹿子さんは満足気に眺めていた。
「何か話したいことがあれば聴くよ。そうでなければ、眠りたくなるまでここでゆっくりと過ごしていくといい。」
それだけ言うと、鹿子さんは背後の棚にお酒と共に並ぶ古風なラジオのボリュームを上げた。束の間のノイズの後、何か詩の様な言葉と共にジャズが流れてくる。空の旅をテーマにした詩と心地よい音楽が店内を幻想的な空気で満たしていく。
それからしばらくの間、二人の間に会話は無かった。僕は黙々とアップルパイとコーヒーを口に運んでいたし、鹿子さんはグラスを丁寧に磨いていた。静かだけれど、気まずさは無い不思議な時間だった。コーヒーを飲んでいるからな気もするけれど、眠気はいつまで経っても訪れない。その代わりに胸の内を話してみたいという思いがふつふつと湧いてきた。今さっき会った所なのに、ちょっと馴れ馴れしい変な店主なのに。口を開くことにためらいは無かった。沈黙を破ったのは僕の方だった。
「小説家になりたい、っていう夢があるんです。」
鹿子さんは手を止めてこちらを見て、先を促すように瞬きをした。
「昔から話を作るのが好きで。小さい頃から指人形でオリジナルの話を作ったりなんかして。」
「うん。」
「中学生とか高校生の時には自分で小説を書くようになってました。でも、大学に入って3年が経って、自分の将来をちゃんと考えないと行けないなと思うようになって。」
「へぇ。」
「小説家になるにしてもそれだけじゃ食っていけない。そうなるとどこかで働き口を見つけなきゃいけない。じゃあ話を作ること以外で好きなことが見つからないなとか、働きながら書くなんて続けられないんじゃないかとか思ったりして。そんなことを考えていたら眠れなくなってしまって。」
「ふぅん。なるほどねぇ。」
「すみません。いきなり長々と話してしまって。」
家族にも友人にも話をしたことが無い。それを殆ど見ず知らずの鹿子さんに話してしまっている。決断でも答えでも無い、今の気持ちをただぶつけただけの言葉。それを鹿子さんはじっと聞いてくれた。そこにいるのにいないような、凄く話しやすい相手だった。
「いいよ。まくし立ててしまうのは、それだけ胸の内でせき止めてしまっていたという証拠だ。」
そこで鹿子さんはモノクルに手をかけた。こちらを見つめる左目がすっと細まる。目があっている筈なのに、不思議と視線があっていないように感じた。僕だけど僕では無い何かを見定められているような気分になって落ち着かない。
しばらく見た所で満足したのか、モノクルから手を外してにこりと微笑んだ。
「他にやりたいことがあるなら、それができる所で働くと良いんじゃないかな。でもそういう簡単な話でもない、かな。」
「ようやく大学も慣れて楽しくなってきた所で、何がしたいのかって見つけられていなくて……。」
「んー。それは困ったね。」
鹿子さんは左眉を上げて言った。自分の将来について何も決められていないなんて恥ずかしい限りだ。消え入りそうになっている時に、ふいに下腹部が熱くなった。続けて何かが這って動くような感覚も。ただ、それも一瞬のことだった。気のせいだったのだろうか。お腹を何度かさすってみるものの、何事も無かったかのように感覚は消えて、腹にはほんのりとした暖かさが残るだけだった。
「おや。お腹の調子がよくないかい?」
「いえ、その、気のせいだと思うんですけど、お腹が凄く熱くなった気がして……。」
「ほぅ。」
僕の言葉に鹿子さんは不思議がるでもなく、興味深いという様にうなずいた。何か知っているような口ぶりに、僕はその理由を尋ねようとした。しかし、鹿子さんが口を開く方が早かった。
「カップが空いたね。次を作ろうか。」
「あ、ちょっと残ってるのでそれだけ飲んじゃいますね。ありがとうございます。」
アップルパイはすっかり食べてしまったけれど、カップには底にうっすらとコーヒーが残っていた。残してしまうのはもったいない。僕はすぐにカップを手に取って、口の中に流し込んだ。冷えてはいるものの、変わらず美味しかった。カップの底を覗いて見ると、先ほどの身代わり猿のイラストが描かれている。白いカップの中で、人形の赤さが色濃く引き立っている。
「じゃあ、もう一杯お願いします。」
「良い飲みっぷりだね。任された。」
鹿子さんは僕からカップを受け取ると、カウンターの中で準備をし始めた。さっきとは違ってコーヒーの匂いが漂い出すことはない。次はコーヒーではないのだろうか。メニューから頼んだ訳では無いので、オリジナルのメニューなのか。いつの間にか懐柔されている自分に驚きながらもちょっとだけ楽しみにしながら席で待つ。
「鹿子さんはどうして喫茶店をしてるんですか。」
「ここは祖父が経営していた店だったんだ。小学生の頃に両親は亡くなっていてね。ちょうどそこに座って面倒を見て貰っていたんだ。」
鹿子さんはそう言って、僕が座っている席を場所を手で指した。それからその手を動かして左右の席を示す。今は誰もいない。でも、きっと鹿子さんはそこに誰かを見ていた。
「常連が多い店でね。みんな優しくて小さい私の面倒を見てくれていたんだよ。」
「昔から夜だけ開いている店なんですか。」
「そうだね。私を含めて、祖父も客も皆、眠れない夜を明かすために集まっていた。その意志を継いで、私が今も店を続けているんだ。」
「そうだったんですね。」
鹿子さんは懐かしむように目を伏せた。手元からは湯気が昇っていて、次のドリンクができたようだった。
「では、こちらもどうぞ。」
「ありがとうございます。わ、ホットミルクだ。」
目の前に置かれた赤色のマグカップ。その中にはなみなみと暖かい牛乳が注がれている。液面でくるくると回る泡。そこから立ち昇る湯気。吸い込んだ湯気には鼻をつく刺激があった。飲んだそばから身体の底から温まる感覚があった。先ほどの下腹部の発熱とは違った、優しい温もりが広がっていく。よく知っている香りだった。
「生姜ですか?」
「ええ。祖父が私用にと、いつも作ってくれていた特製品でね。自家製の生姜シロップが入っているんだ。あったまるよ。」
「確かに。生姜の辛みでミルクの甘みが引き出されてる感じがありますね。」
美味しい。生姜の刺激によって、飲んだ後もすっきりとした味わいになっている気がする。後で分量を教えて貰おうか。家でも再現してみたくなる味だった。もうすっかり提供される物に対する警戒はなくなってしまっていた。次来た時はどのメニューを頼んで見ようかと思っている自分がいる。
ちびちびとミルクを飲む僕と再びグラスを磨き始めた鹿子さん。彼女は手を動かしながら、訥々と話し始めた。
「君の話も聴いたからね。私の話も少ししようかな。」
「はい。」
「両親が亡くなったのは小学生の頃だったんだ。交通事故でね。家族で郊外のショッピングモールに向かう途中だった。対向車線から飛び出してきた車とぶつかってね。……私以外は助からなかった。」
鹿子さんが伏せた目、その目尻に涙が浮かんだように見えた。
「気がついたら父も母も何も言わない冷たい人形になっていた。つい昨日まで話して、笑って、一緒にご飯を食べていたのに。遺体を確認しても、葬式をあげても居なくなった実感が湧かなかった。居ないって分かっているのに、心の中でずっとどこかで生きているんじゃないか、また家に帰って来るんじゃないかと思っている自分がいるんだ。」
「それでここで暮らし始めた。」
「そうだね。友達と離ればなれになりたくなかったし、実家から離れたくなかったから母方の祖父のもとで暮らすことになったんだ。」
鹿子さんの話を聴きながら、カウンターの奥の棚に目を向ける。2段ある棚には1番上の段には多種多様な酒が並んでいて2段目には酒とラジオ、そして写真立てが飾られていた。写真には、喫茶店をバックにして夫婦らしき男女と小さな女の子、そして老人が映っている。恐らく、あの利発そうな女の子が鹿子さんなのだろう。
「両親が居なくなっても世界は何のこともないように続いていてね。びっくりしたのを覚えているよ。学校でも習い事でも皆、気を遣ってくれるけど、支障はなく世界は周り続けている。まるで両親は元からこの世に存在していなかったみたいに。そんなことを考えていたら、いつの間にか眠れなくなっていたんだ。」
「だからこの喫茶店で夜を過ごすようになったんですね。」
「うん。祖父が喫茶店を営んでいるのは知っていたけど、夜限定だったからいつも寝ていて行ったことは無かったんだ。ある眠れない夜、寝間着で一階の喫茶店に降りてびっくりしたよ。奈良だけじゃない、色んな場所から来た眠れない人が同じ夜を過ごして、朝になったら帰って行く。祖父の喫茶店がそんな不思議な場所だったことをその時初めて知ったんだ。」
鹿子さんの視線は僕の後方、テーブル席の辺りに向けられている。きっと昔の賑わいを思い出しているのだろう。僕も振り返って奥の席へと目をやる。壁には世界地図が貼られていて、色んな所にピンが立てられている。昔ここに来た人が付けた記録なのだろうか。よく見ると、テーブルの上や壁面の棚には日本や世界各地のお土産物らしきものが飾られている。
「シーサー、東京タワー、トーテムポールもある。」
「さっき見せたさるぼぼも岐阜から来ていた子が置いていった物だったんだ。」
「賑やかでいいですね。」
「たまにここがどこか分からなくなるけどね。」
そう言って鹿子さんははにかんだ。確かによく見ると異国情緒あふれる店内は他の純喫茶の雰囲気から外れるものではある。しかし、それが鹿子さんが守っていきたいものだと伝わってきた。
「来た人達がそれぞれ悩みを話して、祖父が淹れたコーヒーを飲んで過ごす。年齢や背景が違うのに、そこには奇妙な連帯があったんだ。私もホットミルクを飲みながら、自分の悩みについて話したよ。」
「……解決したんですか。」
「もちろん。ゆっくりとだけど、両親の死を受け入れたよ。幾晩もここで過ごして、沢山の人と話す中で寂しさも紛れてね。同じ悩みを持つ人もいたからね。その他にも、不思議な体験もあったんだ。」
「不思議な体験?」
質問を返した所で再び腹が熱くなった。火がついた、と表現するのが適切だろうか。下腹部が燃えるように熱い。体温が上昇しているというよりも、腹の中で何かが燃えているという表現の方が近い。それに伴ってさっきもあった這うような感覚がその存在感を増してきた。熱さが増すのに連動する形で、這い回る強さも増しているような気がする。
腹を壊したのかもしれない。確か、僕が入ってきたドアがトイレのドアだったはず。とりあえず、一言声をかけてからトイレに行こう。
「あの、鹿子さん。実は、」
「腹が熱いだろう。火がついたみたいに。」
「どっ、どうして分かったんですか。」
「それと、身体の中で何かが動き回るような感覚もあるんじゃないかな。」
目の前で人が苦しみ始めたにしては、鹿子さんは冷静だった。
「はい、はい!あります。」
相変わらず身体は熱いままだし早くトイレに駆け込みたいけれど、鹿子さんの話を聞いてからの方が良さそうだ。僕は椅子から降ろしかけていた足を元に戻した。
「この症状について何か知っているんですか?」
「ここは眠れない方が集まる、眠れない人のための喫茶店だと伝えたね。」
「はい。」
「正確に言うと、『眠れない人を眠れるようにする喫茶店』なんだよ。」
「催眠術とか、ですか?」
「もっと特殊な方法だよ。眠れない原因、心の中にある負の感情を解消するのがこの喫茶店の目的なんだ。」
負の感情を解消。カウンセリングみたいなものなのだろうか。それなら喫茶店だと紹介するのも変な感じだ。これまででも十分ヘンテコな話なのに、これ以上よく分からない話が重なるのか。自分の知識の及ばない講義を聴いている時のように、思考がフェードアウトしそうになるのを必死につなぎ止める。
表情に明らかに不信感が出てしまっていたのだろう。鹿子さんは冷静な表情を少し緩めながら話を続けた。
「結論から話そう。眠れない程感情を抱え込んでしまうのは、身体の中で三尸の虫が悪さをしているからなんだ。」
「さんしの……虫?」
緑色の芋虫が体内を這い回っているイメージが頭を過る。その時、またぞろりと動く感覚が胃の辺りに現れた。
「生まれた時から人間の身体の中にいる鬼や神で、昔から人が眠った時に身体から抜け出して人の悪事を天上に報告して、人間の寿命を縮めると言い伝えられているんだ。」
「どうしてそんなことを?」
芋虫のイメージが赤いカブトムシのイメージへと変化する。小学生の頃、飼っていたカブトムシもよく夜に虫かごを抜け出していた。そんなものが動き回っていると、身体の中がズタズタになりそうだ。
「人が生きている限り身体から出られないからさ。だから、病気を起こしたり欲望を喚起させたりすることで人の命を奪おうとする。」
「その虫、が僕の中に居るってことですか。」
「そういうこと。言い伝え自体は平安から江戸が主流だったけど、三尸の虫自体は今も人間の中にいる。」
腹の中で今一度、何かが蠢いた。もしかして、と冷や汗が背中を流れ、確信へと変わる。
「現代は生活こそ便利になったけど、ストレスを感じることが増えた。その影響で三尸の虫がため込む負の感情も増えて、時に負の感情にすっかり呑まれて身体から出られないものも出て来たんだ。」
「でも、身体から出ていかない方が良いんですよね?」
「そうだね。ただ、宿主のストレスや負の感情を抱えた三尸の虫が外に出て行かないことで、宿主のストレスもずっと残り続ける。それどころか、三尸の虫の中でより濃縮されてしまって、宿主を苦しめてしまう。」
生物濃縮。中学か高校で学んだ言葉を思い出す。元から体内にいるのだから仕組みは異なっているかもしれないが、概ねこうした見方で間違いないだろう。僕のストレスが消えずに体内に留まり続けているということか。
「それが僕が眠れない原因なんですね。」
「そう。幼い私が眠れなかったのもそれが理由でね。だからこそ、一旦外に三尸の虫を出して消滅させる必要があるんだ。」
「外に出す。」
「ここで提供しているメニューはちょっと特殊でね。食べたり飲んだりすると虫を身体の外に排出できるようになるんだ。」
「な、なるほど……うくっ、あっ、うぷっ…………おえ、おえっ。」
その時、何かが食道を急激に逆流する感覚があった。それ自体が推進力を持っているかのように、腹にあった熱さが喉元へと近づいている。トイレに行かないと、そう思ったが間に合わない。手で受け止める暇もなく、カウンターテーブルを向いた口から何かが飛び出した。
ごぽり。胃液や唾液が出た不快な感覚は無い。しかし、口から吐き出されたものは光沢のあるぬめりを持っていた。先の細い白く楕円形の身体からは、小さな手足が生えている。2つの灰色の瞳と大きな口。頭の上にはアホ毛の様な突起もある。全長は30㎝くらい。改めて見ると口から出る筈の無い大きさだ。少し突いてみる。柔らかい。ゼリー体だからスムーズに吐き出せたのだろうか。見た目通り、動きはそこまで速く無い。のっそりとした動きでカウンターの上を歩く。数歩歩いては、何かを探す様にピーピーと鳴いている。目は悪いのか、カウンターをウロウロとしてはあちこちに頭をぶつけて方向転換、という動きを繰り返している。可愛さと気持ち悪さが両立した、何とも言えない見た目の生き物だ。強いて言うなら、オタマジャクシに似ている。幼体のようにも見えるが、蝶や甲虫ではなくカエルになりそうな見た目だ。
「はぁ、はぁ、はぁ。あの、これが三尸の虫ですか?」
「そうだね。感情の種類や大きさによっても変わるけど、これも三尸の虫だよ。」
「で、これをどうするんですか。」
殺してしまうのだろうか。先の話を聴いているとあまり良くない生き物という印象を受けた。ただ、生まれてからずっと閉じ込められていて、宿主の感情ばかり貯めこんで、ようやく外に出たと思ったら消されてしまう。そんな話を聴くと可哀想という気持ちが湧かないことも無い。複雑な心境のまま、僕は鹿子さんの次の言葉を待った。
「荒療治だけど、すぐに消せないことも無い。でも、基本的に三尸の虫は抱えた宿主の負の感情が消えない限り消えることは無いよ。」
「さっきの話だと、身体の外に出たら天に昇って宿主の寿命を縮めてしまう、っていう感じだった気がするんですけど。このままだと、僕の寿命が縮まるってことにはなりませんか。」
一方的に殺してしまうのは良くない、とは思いながらも自分の寿命を天秤にかけるとなると複雑だ。どっちつかずの自分の小心者かげんが恥ずかしい。
「鋭いね。でも、そうだったのは昔の話。鬼であれ、神であれ信仰が薄れるにつれて力を失う。今では人の負の感情を抱え込み成長するだけの機構。そこには意志も目的も無い。」
「迷子、みたいなものなんですね。」
「…………。」
僕の言葉に鹿子さんは目を丸くして、それから頬を緩めた。何か変なことを言ってしまっただろうか。鹿子さんはその表情のまま何も言わない。ただ、気分を悪くしているようには見えなかった。表情の真意を尋ねたかったけれど、何となく聞きづらくて僕は話を変えた。
「さっきここの料理は特殊だ、って言ってましたけど、材料が特別なんですか。」
「よく聞いてくれたね。この店から少し歩いた所にうちで管理してるお堂があるんだ。その中に実は井戸があってね。そこは若草山、春日原生林辺りの湧き水を引いてきているんだ。」
「その水が使われている、と。」
修学旅行で見た山を思い出した。こんもりと3つの笠が重なった、緑溢れる山。その山から湧き出た水があるなんて知らなかった。こういう湧き水ってかなり標高の高い山でしか採れないと思っていた。
「うん。三尸の虫は六十日に一度、人間の身体から抜け出すと言われていたんだ。だからその日は、地域の人で集まって夜通し騒いで眠らないように気を付けていた。その時に参加者に振る舞われていたのがこの井戸水だったんだ。」
「そんなに昔からあるのに、ニュースで聞いたこと無いですね。」
「この地域の秘密なんだ。ニュースにしちゃうと、本当に必要な人に届かなくなってしまうからね。」
ほんの少し、うさんくさい。これが都市部の貸し会議室で行われている説明だったら途中で席を立っている。でも、目の前の人はぴっちりとスーツを着こなして居る訳でも無いし、自信満々に話しているわけでもない。この町にあるらしい神秘を気楽に話している。そこには物を大きく見せようだとか、情報量で圧倒しようという熱気のようなものは感じられなかった。
「特別な効能があるんですか。」
「まぁ、昔から庚申の日に人が飲んでいたってだけで特別な成分が入ってる訳じゃ無いと思うよ。」
「じゃあ、ただの水かもしれないってことも……」
「ま、あるだろうね。」
何でも無いことのように言って、鹿子さんは背後の棚にもたれかかった。それから胸ポケットからあめ玉をひとつ取り出して、口の中に放り込んだ。先ほどまで感じていた神秘的な気配は薄くなっている。
「私はね、超常現象やら未確認生物とかいう神秘というのはどれも信じられていることが存在の条件だと思っているんだ。この喫茶店のトイレの扉が眠れない人の部屋と繋がること、人の身体の中に三尸の虫がいること、どれも数値で説明できる理がある訳じゃ無い。だから私も出来る限り信じて貰えるように順を追って説明しているんだ。」
「じゃあ、僕が今から信じるのを辞めたら?」
僕の問いかけに鹿子さんがスッと目を細めた。白目がまぶたの影で隠れて、暗闇に見つめられている気分になる。今度はウインクという訳じゃなさそうだった。
「面白い質問だね。私と言葉を交わし、飲み食いをした。君はもう既に境界を越えてしまっていると思うけどね。」
「境界?」
「もう元の世界には戻れないってことさ。」
目はこちらを見つめたまま、カラ、コロ、と口の中で飴を弄ぶ音が聞こえてくる。
ごくり、とつばを飲み込む。喉仏が元の位置に戻るまで、僕は鹿子さんから目を離せないでいた。時間にしたらほんの数秒だったのだろう。二人の間にピンと張り詰めた糸を最初に切ったのは、鹿子さんだった。舐めていた飴を噛んだかと思うと、瞬く間にかみ砕いてしまった。しばらく豪快な音が鳴り響く中で、鹿子さんは吹き出して笑った。
「ふふっ。なーんてね、冗談だよ。」
「なんだ。心臓に悪いですよ。」
「ごめんよ。家にはちゃんと帰れるから安心してくれ。」
鹿子さんはそこで一息ついてから、真面目な顔で続けた。
「でも、君が今の状況を信じる前に戻れないのも事実ではある。」
「それが境界を越えたってことですね。」
「うん。君は今、現実の外の淡いの部分に触れているんだ。」
そこまで言うと、鹿子さんは入り口のドア近くにかかっている時計に目をやった。つられて見ると、時計は4時を示していた。そろそろ営業終了時間なのかもしれない。長居し過ぎたかもしれない、と焦ったものの、鹿子さんの次の言葉は意外なものだった。
「少し夜風に当たろうか。」
「え?」
「三尸の虫を連れてきて。見せたいものがあるからさ。」
聞き返す間も無く、鹿子さんはてきぱきと店を閉めていく。仕方が無いので、僕は目の前の三尸の虫を両手で持ち上げる。外見通りぬめりがあってあまり長くは持っていたくない。ひんやりとした感触が掌に伝わる。生き物とは違うからか、温かさは感じなかった。
その内、鹿子さんが室内の電気を落とした。暗い室内で手元の三尸の虫だけがぼんやり白く光っていた。鹿子さんは入り口のドアを少し開けてこちらを振り向いた。夜風が店内に流れ込んでくる。昼間の暑さが嘘のような
涼しい風だった。
「さぁ、行こうか。」
促されるまま、外に出る。振り返ると木目調の壁に瓦屋根の日本家屋があった。見た目は古そうだけれど、庚申堂の中は綺麗だった。リノベーションしたのだろうか。周囲には、同様の家屋が並んでいた。一度修学旅行で来た時に見たことがあるような景色だ。本当にならまちなのだ。
「ちょっと何してるんだい?置いて行くよ。」
僕が気を取られている内に、電灯の弱々しい明かりが照らすアスファルトの道を鹿子さんは歩いて行く。深夜に土地勘の無い場所で置いてけぼりになることだけは避けたい。
「待ってください!!」
小声で呼びかけながら、慌てて鹿子さんの後を追う。庚申堂を出て右手に曲がると、じきにT字路に出た。左手は急な下り坂になっていて、右手は軽い上り坂になっている。鹿子さんの歩みに従って右手に進むと、うっすらとアーケードのある商店街が見えてきた。
「ここが下御門商店街。途中で餅飯殿商店街にもなる。」
「お店、全部閉まってますね。」
「今は深夜だし当然だけど、奈良の商店街はお店が閉まるのも結構早いんだ。」
「観光地って夜もお店が開いてるイメージありますけど。」
「奈良に来た人って、みんな大体夜は京都に行っちゃうからね。泊まる人なーんて全然居ないのさ。」
誰もいない商店街、アーケードの下。僕の数歩先を行く鹿子さんは両手を広げながら歩いていく。
「そういえば僕も修学旅行で来た時、午前中に奈良に来て、夜は京都で泊まりました。」
「まぁその分、奈良の夜は静かで良いけどね。」
商店街の店はどれもシャッターが閉まっていて、人っ子一人歩いていない。石畳調の床を歩く二人の靴音がこだましていた。商店街を進む中で何度も両側に路地が現れた。覗いても光で照らされていない道の先が見えることは無く、酷く恐ろしくなってなるべく路地の先を見ないようにして進んだ。
そんな怯える僕に気づいてか気づかずか、鹿子さんは「ここのコロッケが美味しくてね。」「ここのラーメンはしょっちゅう並んでるんだよ。」「あ、ここのかき氷は有名なんだ。」とラジオのように商店街紹介を続けている。今度は昼間に来てみたいなと思うようになった頃、商店街の出口が見えてきた。
「この先に面白いうどん屋と餅屋があるんだよ。」
「テレビで見たことあるかもしれないです。」
「そこのよもぎ餅は絶品でね……」
そのまま出口に向かうかと思いきや、鹿子さんは右に曲がって手前の路地へと入った。うねる細い路地の先は10段ほどの石の階段があり、その先は何やら開けた空間と繋がっている。足を進める度、既視感のある光景が視界に入ってくる。階段の最後の段を上がった時、僕の目に飛び込んできたのは大きな池だった。後方には五重の塔がそびえている。月は雲に隠れていて、辺りは薄暗い。
「ここは猿沢池。修学旅行で来たなら、知っているかもしれないね。」
「はい。奥の五重の塔にも行きました。」
「それは結構。もう少し縁に寄って、三尸の虫を水面につけてみて。」
「え、良いんですか?」
そうは言いながらも、三尸の虫を抱えて水辺の鹿子さんの元へと歩み寄った。池の中を覗くと小さな魚群がゆらゆらと漂っている。
「水質や生態系への影響なら無いから安心するように。実体はあるけど、私達人間とは別の理で出来ているからね。それに、猿沢池は昔からけして澄むことも濁ることの無い不思議な池だと言われているんだ。」
「めちゃくちゃ藻が浮いてて濁ってますけど。」
「まぁ、その内分かるよ。」
「……なるほど?」
何が見られるのか、気にはなったけれど聞いても教えてはくれなさそうだ。言われるがまま、手の中の三尸の虫をかなり濁った水面につけた。最初こそビクッと身体を震わせたものの、三尸の虫は手足をバタバタと動かして僕の手の中から離れていった。その白い身体はすぐに藻に紛れて見えなくなった。見慣れると可愛くも見えてくる。
すっかり愛着が湧いて名残惜しい気持ちになったところで、水面が光で照らされ始めた。雲で隠されていた月が姿を現したのだ。隣にいた筈の鹿子さんは池の縁から道路を挟んで向かいに立つカフェのテラスに立っていた。彼女は私に向かって手招きしている。
「こちらに来てみなよ。」
「は、はいっ。」
濡れた手を軽く振りながら、僕は鹿子さんの元へ駆け寄った。道路より数段高いテラスに登って鹿子さんの隣に立つ。視線の先には先程までとは姿を一変させた猿沢池があった。
月に照らされた水面には白く発光する何かが次々に浮かび上がていた。よく見ると、白い光の一つ一つが三尸の虫だった。月の光を浴びて、元から白い身体が内側からぼんやりと光っている。
「綺麗だ。」
「そうだろう?」
思わず呟いた僕と、自慢げに覗き込んでくる鹿子さん。街灯も殆ど無い暗闇の中で、池だけが輝きを放っていた。静けさと光の共演が幻想的な風景を生み出していた。
「いや~こんな景色が見られるんだからこのカフェも夜やるべきだと思うね。」
「チェーン店だから難しいんじゃ……それに庚申堂の競合になっちゃいますよ。」
「んー。それもそうか。」
鹿子さんは納得したのか「最近できたんだけど、日中はずっと人でいっぱいでね。こうして夜にしか来たことが無いんだ。」と言って、しばらく黙り込んだ。彼女が再び口を開いたのは5分くらい経った後だった。
「ここにいる三尸の虫たちは、庚申堂に来た人から出て来た子たちなんだよ。」
「これ、全部がですか。」
優に10、20を超える数が居る。この1つ1つがどこかの誰かの悩み、ということなのか。
「全部が、ね。」
「どうして猿沢池に流すんですか?」
「昔からの慣習、というのが答えかな。遥か昔から三尸の虫が天に昇る準備をするのは猿沢池だと言い伝えられていて、私もその慣習に習っているんだ。祖父もそうしていたしね。」
そこまで言って、鹿子さんはテラス席の床に座り込んだ。膝を抱えて座る鹿子さんは少女の様に幼く見えた。僕も合わせて隣に座る。
「私も悩みを口にした夜、三尸の虫を吐き出したんだ。子どもとはいえ、常識を越えていることが起こっていることは分かっていたから、酷く驚いた。それから恐くて泣きじゃくっている私を、祖父は猿沢池まで連れてきてくれたんだ。」
視線は猿沢池に向けたまま、膝を囲む両腕に顎を乗せて鹿子さんは話を続ける。
「今日と同じように、三尸の虫を猿沢池に放して、白く光る池に驚いて。それから……」
鹿子さんはそこで話をいきなり止めて、両手を打ち合わせた。パチリ、と乾いた音が夜の闇に吸い込まれて消えていく。
「1つ提案があるんだ。」
「提案?」
「単刀直入に言うよ。庚申堂でアルバイトとして働かないかい?」
「ええと。」
話の流れが掴めない僕が言葉を探す間に、僕の方を見て鹿子さんは話を続ける。
「いや~最近来客が多くて手が回らなくなりそうでね。」
「はぁ。それでどうして僕なんですか。」
「君、三尸の虫を見て『迷子みたい』って言ったろ?」
「言いました。たぶん。」
返答を聞いた鹿子さんは、また懐かしむ目つきをして視線を池へと向けた。
「ふふ、その言葉を祖父も使っていたんだ。」
「お爺さまが?」
「うん。三尸の虫を怖がる私に祖父が言ったんだ。『これは鹿子の気持ちが形になったものなんだ。今、鹿子の気持ちがぐちゃぐちゃになっているからこの子も迷っている。迷子になっちゃってるんだ。まずはこの子をおうちに帰してみないかい』ってね。」
「それで猿沢池に来た、ってことなんですね。」
「うん。でも、祖父が見せたかったのは池だけじゃなかったんだ。」
含みのある言い方が気になったその時、池に動きがあった。静かだった水面が渦を巻き始めているのだ。白く光るモノ達の動きによって、反時計回りの渦が池全体に現れている。渦によって水面は上昇し、溢れた水が池縁を濡らしていく。それまでは一定だった三尸の虫の輝きも、強弱の激しい明滅を繰り返している。何かが起こる。鳥肌を立てた肌が差し迫る変化を教えてくれる。徐々に惹きつけられ、目が離せなくなっている自分がいた。
「人の身体から出ていっても三尸の虫と宿主の心は繋がっているんだ。三尸の虫を外に出すことで宿主は少し楽になるけれど、宿主の悩みが解決しないと問題の根本的な解決にはならない。そして、悩みが解決することで三尸の虫は天へと昇ることができるんだ。」
「ほら、見てごらん。」そう言って、鹿子さんは渦を巻く池の中央を指さした。底面が露出しているのではないかと思う渦の中心から、何かが飛び出そうとしていた。白くのっぺりとした顔つきに、光沢のある太く細長い躯。存在する生き物で例えるならそれは、蛇だった。
「……大きい。」
せいぜい両手で抱えられる位の大きさだった三尸の虫とは異なり、蛇は僕の身長の2、30倍くらいはありそうだった。渦巻きの中から顔を出したその蛇が螺旋を描きながら天上へと昇っていく。まるで昔の絵巻物の一幕だった。
白い巨獣が月へと向かって飛んでいく様は非常に幻想的なのだが、巻き上げる水量もまた凄まじいものがあった。イルカショーの最前席なんて比にならない量の水がまき散らされ、雨の様に降りかかった。
どれくらい続いただろうか。いつの間にか白い蛇は消えて、池も元の静けさを取り戻していた。後に残ったのは、テラス席で仰向けになったびしょ濡れの僕らだけだった。
「「ふっ、あはははははは!!」」
笑い出したのはどちらからだったか。僕にとっては非日常の連続で、脳の処理が限界を迎えていて笑ってしまっていた。それからしばらく、緊張の糸が切れたように笑っていた。
超常的な現象に当てられた熱も冷め、濡れた衣服のずっしりとした重みと染みついた池の臭いを感じ始めた頃、鹿子さんがぽつりと話を始めた。
「初めてここに来た時も、こんな風にびしょ濡れになったんだ。」
「でも、もう慣れたんじゃないですか。」
「いや、いつもはもう少し離れて見たり、ばっちり対策してから臨むからね。」
「ちょっと、じゃあどうして今日は……」
僕が身体を起こして抗議をしようとした言葉を遮って、鹿子さんは言った。
「君に知って貰いたかったんだ。抱えた悩みはいつか解決するってこと。そして、それを見届ける気持ちよさをね!」
またもウインクし損なっている右目とサムズアップした右手。びしょ濡れだし、とてもカッコのつく姿ではない。それでも、僕は鹿子さんの大胆さに惹かれていた。
「ええ……。」
「気持ちよかっただろう?」
「うん、まぁ、確かに?」
「歯切れが悪いなぁ。」
口調は不機嫌でも、僕の表情に満足がいったのか、それ以上感想を尋ねられることは無かった。
「あの。あの蛇も誰かの悩みだった、ってことですか。」
「そうだね。本人がいないのが残念だけど、その内店で会えると思うよ。」
「どの蛇が誰の悩みか、なんて覚えてるんですね。」
「このモノクルは特製品でね。そういうことが見えるものなんだ。」
水滴で濡れたモノクルをクロスで拭きながら、鹿子さんは答えた。そしてもう一度かけ直して僕を見た。その目はじっと僕のことを見据えている。そう言われると特別なオーラをまとったレンズに見えてきた。
「私は君の悩みも一緒に解決したいと思っているよ。」
「僕の悩み、ですか。」
「君の悩み、黙って聞いてりゃ視野が狭い!!」
「なっ!?」
ビシッと指で指されて言葉に詰まる。鹿子さん、黙っては無かった気がするけれど。
「庚申堂にはね、子どもから大人まで色んな背景をもつ人が集まるんだ。それぞれに考え方があって、その人にとっての世界の見え方がある。君はそれらに触れてみるといいと思うよ。」
「それが悩みの解決に繋がる。」
「繋がる……かは分からないけどね。夢が作家なら、なおさら色んな人と会って話をしておいた方がいいんじゃないかな。」
「そう、ですね。」
「眠れない悩みがある内はどこからでも庚申堂に出入りできる。深夜割り増し料金も出すし、まかないも出る。うちのメニューは疲労にも効くからね。多少睡眠を取っていなくても大丈夫さ。眠くなったらバックヤードで好きに寝て構わない。」
「ありがとうございます。でも、良いんですか?」
ドアtoドアだし、まかないも出るなら食事も浮く。確かに好待遇だ。でも、その誘いに食いつくのには抵抗があった。店に来た時よりは遥かに不信感は薄れていたし、バイトの誘いは僕にとって渡りに舟だった。これまで働いていたパン屋が財政難で潰れてしまって、工場の派遣バイトで食いつないで居たからだ。そろそろ腰を据えてじっくり働けるバイト先を探したいと考えていた。この数時間、鹿子さんと話して真意が読めない所もあるけれど、悪い人ではないのは伝わってきた。池にはあれだけの悩みを持つ人達がいて、その人達も店を訪れていた筈だ。それなのに、僕だけが特別扱いされることに若干の抵抗があった。
「ふふ、これまで私の目が間違っていたことは無いんだよ。」
右手でモノクルを押し上げる振りをして、鹿子さんは自信ありげに笑った。理由はさっき聞いたけれど、何故僕なのかという気持ちは拭えない。それでもここまで自信を持って誘ってくれている人の言葉を信じないわけにはいかなかった。
「それなら。あの、僕で良ければ是非よろしくお願いします。」
「決まりだね。そうと決まれば今日は歓迎会と行こうか。」
「え、朝までですか。」
店を出たのが4時だったから、もうすぐ5時だろう。今日は月曜だし、2限から講義もある。今の内に帰って眠っておかないと……あ。
「いいじゃないか。どうせ、眠れないだろう?」
「そうでした。いきましょう。」
「そう来なくっちゃ。」
テラスを降りて来た道を戻り始めた鹿子さんを追いかける。
「ふぁ……。」
その時、口から欠伸が漏れた。それからすぐに少しの眠気。眠たい、という久々の感覚に胸が高まる。
僕が足を止めたことに気がついたのか、鹿子さんは振り向いて不思議そうに問いかける。
「どうかしたのかい?」
「いえ。何でもないです!!」
眠るのはもう少し後でいい。僕はいつぶりかの欠伸をかみ殺して、鹿子さんのもとへと駆け寄った。おやすみにはまだ早い、というかのように世界は明るさを取り戻しつつあった。
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