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薬剤師×<責任>の生成

私は立場上、その患者さんを受けたらちゃんと対応できる責任が持てません。と言われることがあります。その度に責任とはなんだろう?と思っていました。
責任とは、(時には言い訳のように使える)都合の良いものなのでしょうか?
ずっとモヤモヤしていた私は一冊の本をもとに思考を整理してみました。
<責任>の生成 中動態と当事者研究 著者 國分功一郎 熊谷晋一郎

※以下は私個人の考え方であり、別の考え方をする方を否定するつもりは
全くありません。一冊の本を読んで考えた、あくまで私の思考の整理、虚言だと思って読んでください。

意志と選択は別で考える。

私は今まで意志と選択は一緒に考えていました。しかし、この本では、意志と選択は別で考えることが提唱されています。この考えはとても新鮮でした。

意志と選択はしばしば一体と見なされます。選択がなされたなら、そこには意志があったのであり、意志があるから選択がなされるのだと。しかし、意志は心のなかに感じられる物であり、選択は現実の行為です。存在している水準が全く異なっている。

<責任>の生成 p116

例えば、薬剤師が訪問できないと選択したとします。意志では、行かなきゃ、行った方がいい、と考えていたとしても、行かないという選択をした。意志と選択を分けて考えることで、意志と相反する選択をしたとしても、そもそも別なんだから、という理解に及ぶことができます。 これは非常に便利な考え方で、そう考えることで私自身を納得させることができました。

では、責任とは?

僕らは不断に選択しています。何をするのも全て選択です。それに対し意志というのは、後からやってきて、そこに付与される物です。付与された後で、その選択が私的な所有物にされる。「この行為はあなたのものですね」ということにされる。そうして責任が発生する。

<責任>の生成 p117

選択に意志が付与されると責任になる。ということは、責任とは、自分で付与するものではなく、他者が付与することになりますよね。そもそも選択と意志は別で考えなくてはいけないのに、一緒くたにするのは外側(他者)からですよね。

確かに責任があるかどうかは、他者視点で語られることが多いように思います。

責任を英語でresponsibilityと言いますよね。これは応答を意味するresponseから来ています。つまり責任は応答することと関係している。けれども、我々の知る意志の概念によってもたらされる責任はどこにも応答の契機がありません。なぜでしょうか。  責任を英語でresponsibilityと言いますよね。これは応答を意味するresponseから来ています。つまり責任は応答することと関係している。けれども、我々の知る意志の概念によってもたらされる責任はどこにも応答の契機がありません。なぜでしょうか。 責任とはこのような「義の心」のことではないでしょうか。自分が応答するべきである何かに出会った時、人は責任感を感じ、応答する。これがそもそもの責任という意味ではないでしょうか。  すると、こう考えられます。意志の概念を使ってもたらされる責任というのは、実は堕落した責任なのです。本当はこの人がこの事態に応答するべきである。ところが、応答するべき本人が応答しない。そこで仕方なく、意志の概念を使って、その当人に責任を押し付ける。そうやって押し付けられた責任だけを、僕らは責任を呼んでいるのです。

<責任>の生成 p118

今まで自分が使っていた責任とは「堕落した責任である」と。責任という言葉が都合の良い言い訳のように使われる違和感はこの「堕落した責任」だったからかもしれません。 責任・意志・選択、そもそもステージの違うものを一緒に考えるから違和感が生まれるわけですね。

これから自分はどうするか

ここまでの話を持って、自分はどう行動するか。
突然、責任と意志は違うとか言い始めたら周りも混乱すると思うので、今までの文脈、使われ方はそのままにすることを前提に、責任とは応答するべきことに応答する、超訳するとつまり、自分の心が「やれ」「やるべきだ」と反応したことに応答する、これを行動に移していきたいと思います。

今までも自分の気持ちに正直に行動してきましたが、ますます助長されそうです(笑)

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