子守歌はカルピス劇場
生後1か月半の孫娘と、その母である娘が、1週間ほど我が家に滞在することになった。
産後すぐから、娘夫婦だけで子育てを頑張っていたが、娘の体調がいまひとつとなり、少し身体を休めるためにやってくるのだ。
滞在が決まった時から、年末以上の大掃除モードになった我が家である。
エアコンのフィルターの掃除はもちろん、二人が使う部屋の畳や壁、押し入れの中にいたるまで、拭き掃除をしまくる。
布団や紙おむつ、チャイルドシートまで購入し、私の車には、くれよんしんちゃんの「赤ちゃんが 乗っているゾ」のステッカーが揺れだした。
キャラクターものを飾るのは好きではないけど、一目で孫の乗車を知らせるのに一番目立つデザインを選んだ結果、くれよんしんちゃんになったというわけだ。
上から目線のしんちゃんと、無邪気なひまわりちゃんのデザイン。
まさか、こんな飾りを私の車につける日がこようとは・・・。
そうやって、ばっちこ~いと迎えた孫娘と娘。
孫娘は、もちろん可愛くてたまらない。
寝ていても可愛いのに、目を開けるとこれまた可愛い。
はかない声でするおしゃべりも可愛いのに、全身を振り絞って泣いている声も可愛い。
眠くてとろ~んとなり、両腕両足がだんだんと緩んでいく姿も可愛いが、両手足に力が入り、顔を真っ赤にしたかと思うと、大人顔負けの音量のおならをする姿も可愛い。
まあ、とにかく可愛いのである。
一番心を打たれた可愛い場面。
朝方、そーっとふすまを開けて二人の様子をうかがうと、娘が孫娘の手を握りしめなが寝ている。
小さな手を、やさしく大切そうに、そーっと握りしめている娘。
夜中に、睡眠不足の娘が、気力を振り絞って、孫娘に寄り添おうとしているのが、その姿勢からうかがえる。
愛情があふれだしていた。
こぼれ散っていた。
絵画を見ているようだった。
言い過ぎ?
なのに、隣の部屋で寝ていた私は、そんな娘をフォローする役割を果たすことなく、体力が続かず、毎回朝まで寝てしまうという、大失態の日々。
とほほほ。
と、そんなことを、夫に報告すると、言葉少なに涙ぐむ夫。
えっ!?泣いてる?
「ほんまに絵画みたいやったわ。ルーベンスの絵よりも、神々しかったわ。」
と言うと、
「ルーベンスがなんぼのもんやねん。」
との返事が返ってきた。
いやいや。ルーベンスはすごいよ。
世代的に、カルピス劇場を見て育った私たちにとって、ルーベンスの絵といえば、フランダースの犬である。
教会に飾られたその絵の前で、命が絶えたネロ。穏やかな表情になったネロを、やさしそうな天使たちが天に連れていくシーンは、あれから何十年たった今でも、忘れられない。だから、ルーベンスといえば、私たちの世代にとっては、特別にすごい絵として胸に刻み込まれているのだ。そのルーベンスを、なんぼのもんやねんと言ってのける夫。カルピス劇場をうらぎるのか?いやいや、それほど、娘と孫娘に対する思いが強いということなのか?
話はそれるが、フランダースの犬を毎週カルピス劇場の時間帯に見ていた子どものころ、仲が良かった友達の家で、フランダースの犬禁止令が出されたことがあった。
テレビ放映の翌日は、学校でフランダースの犬の話で盛り上がるのだが、その友達は寂しそうに、「お父さんが見たらあかんて言うねん。」と言い出した。
えっ?なんで?先週まで、たしか、お父さんも一緒に見ているって言ってたような・・。
理由を聞いてみると、「あんなあ、お父さんがな、悲しすぎるからもう見たらあかんて。お父さんは、もう見てられへんからって。」ということやった。
そんなごむたいな。
確かに、次々と悲しいことが襲ってくるし、むくわれないし、濡れ衣まできせられるネロ。
でも、その悲しみに寄り添いたいじゃないかと、子どもながらに思ったのを覚えている。
しかも、関係ないかもしれないが、その友達のお父さんは、警察官だった。制服がびしっと似合うりりしい警察官。
あの見た目と、言葉とが、一致しない。
人は見た目とちがうなあ~と、初めて感じた出来事だったかもしれない。
さてさて、話はもどる。
一番サポートが必要な夜に役立たずの私は、せめてもと、娘の食事と、日中の孫娘へのサポートを頑張ることにした。
特に、ミルクでもおむつでもなく、なかなか泣き止まないような時にあやす係として、がぜんはりきったわけである。
ここぞとばかりに、子守歌を連発するのである。
娘が赤ちゃんだった頃に、よく歌っていた「おかあさんといっしょ」に出てきた歌を片っ端から歌う。
腕の中には、孫娘を抱え、ゆらゆらゆ~ら。
歌っているうちに、娘が幼かった頃のことを次々と思い出し、歌が熱を帯びてくる。
あんな歌もあったわ。
こんな歌もあったわ。
あの時、こんなことがあったわ。
そういえば、こんなことをしてたわ。
などなど、懐かしさが胸に広がり始め、ますます、歌は熱くなってくる。
孫娘がその歌を聴いているのかどうなのか。
もはや、わからない。
ただただ、歌いたいだけの私になっている。
いかんいかん。
その熱も、歌う曲がなくなってくると、落ち着いてくる。
二巡目になると、孫娘の反応を振り返る余裕が出てくる。
ようやく。
しかし、その二巡目も終わるというのに、孫娘はまだぐずぐず言っている。
眠たそうなのに、寝れないようだ。
もしかしたら、歌が邪魔なのかもしれないが、私は、酔いしれていて、そんなことには、まったく気が付かない。
困った。
次は、何を歌おうか。
そこで、思い出したのが、カルピス劇場に出てくる物語のテーマ曲である。
これだ!
フランダースの犬はもちろん、アルプスの少女ハイジ、あらいぐまラスカル、母をたずねて三千里などなど。
次々と、出てくる。
しかも、オープニングだけでなく、エンディングの曲もあるので、まだまだ余裕である。
またまたのってくる私。
ゆらゆらゆ~らどころか、いつしかズンチャズンチャのリズムで揺らされている孫娘。
ますます目は閉じない。
今度は、歌いながら、自分の子供時代のことも思い出す。
それに伴い、自分の両親のことも思い出す。
孫娘、娘、自分、両親。
歴史がめぐりだし、もうすっかりとリサイタル状態になってしまった。
子守りって、赤ちゃんのことだけを考えてればいいのかと思っていたら、そうじゃなかった。
腕に抱いた孫娘のぬくもりを通して、時間をさかのぼっていく経験ができるんやなあ。
いいことだけでなく、後悔していることとか、出来事よりも、その時の感情が、とても明確によみがえってくる。
「走馬灯のように」って言葉がしっくりとくる感じがした。
病気をして、命の限りについては、けっこう考えてるつもりだが、あらためて、命が時の積み重ねであることを実感。
娘にも、そして孫娘にも、いつかそんなことを思う機会がやってくるんだろうか。
その時に、私と過ごした記憶が、遺伝子のどこかすみっこにでも残されているんだろうか。
それにしても、子守歌には、ワルツはあかんな。
ブンチャッチャッ ブンチャッチャッは、のりにくい。
母を訪ねて三千里のエンディングの歌は大好きやったのに、子守歌のレパートリーからは、外させてもらいました。
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