命日に思う 最後は
夏は命日が続く
それも若くしてお空に旅立った大切な人々の
だから、夏になると、彼らのことを思い出す
それも食べ物といっしょに
ガリガリ君を食べたことがないといってた人
柚子の炭酸割を晩酌代わりにしていた人
小さな作業所で作られている素朴なクッキーをいつも届けてくれる人
ガリガリ君の人は、どうやら最期にソーダ味を病院で味わえたらしい
柚子の人には、お別れしたその年に彼女の夫に柚子をたくさん送った
クッキーの人は、その夫とも友達なので、たまに会う時には、必ず美味しいものを互いに用意して交換している
でも、あのクッキーほど美味しいものはないけどな
どの人とも、お別れのその時に一緒にいたわけやない
もちろん、家族でも親戚でもないんやから、そんなことは当たり前やけど
よく
死に目に会えてよかった
とか
死に目に会えんかった
とか言われるけど、
それってどうなんやろう
わたしは、その人とのお別れを感じるのは、
死に目よりも、
その後の方が、
寂しさや悲しさに襲われながら実感していくもんちゃうかと思っていて、
だから、死に目というものに、そんなにこだわることはないって思ってた。
それよりも、その人と、どんな時間を過ごしてきたかの方が大事やと思ってた。
そんなことを夫にだらだらと語っていたら、
「う~ん。僕は、やっぱり最後の時は誰かにそばにいて欲しいなあ。
怖いし、ものすごく不安やし、そんな時に一人っていうのは辛すぎるから。
だから死に目に会えるってことにこだわるのは、わかる気がするねん。
その人が寂しくないようにって、そばにいてあげたいんとちゃうか。
そんなことない?」
という言葉が返ってきた。
「えっ?
わたしは一人でいいよ。わたしのために、誰かが無理をして時間の都合をつけたりするのかと思うと、そんなことは絶対に嫌やもん。
それぞれの人との思い出があれば、もう十分やねん。」
と言うわたしに、
「らしいなあ。」
と苦笑する夫。
たしかに、1人でいいっていうのは、わたしの場合のことやねんな。
送り出される人は、もしかしたら夫のように、不安やからそばにいてほしいと思ってるかもしれんし。
最期まで、声を聴いていたいと思うかもしれんし。
旅立つときは一人やから
そうわたしが思うのは勝手やけど、だれもが同じように思うわけやないもんな
もうすぐ還暦を迎えるというのに、こんなことに今頃気がつくなんて、わたしって自分で思っている以上に、自分勝手に生きてきたんかもしれん
そういえば、昔からお葬式に行くのが苦手やった
今でこそ、家族葬が主流になってるけど、
ふた昔ほど前までは、職場の同僚の親御さんが亡くなった時にも、
お通夜に参列しに行ってた
当時は、形ばかりの参列が嫌でしょうがなかった
全然知らない人のお通夜にいったところで、
なんだかうそんこのような気がして、かえって失礼なんちゃうかって思ってた
でも、全然知らないその親御さんをおまいりするのは、寂しい思いをしている同僚の気持ちに寄り添うためやったんやな
やっぱり、人の気持ちも慮れず、けっこう自分勝手に生きてきたみたいやわ