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誰も救わない創作活動が掬うもの

今回のnoteは自分にとっての創作活動の核の一部分の話をします。核であり、しかも存分に自分の浅はかさが表出している文章なので読んだ人にがっかりされてしまうのが怖いですが、できるだけ誠実に、謙虚に描きたいと思います。私のこの怖い気持ちへの餞に、創作活動をするのが好きな人、見るのが好きな人、いろんな人に感想を頂けたらと思って書きます。

幼少期から何かしら読んだり聞いたり書いたり弾いたり描いたりすることが好きで、念願叶って大学院でもそれに通ずるデザインを学んでいます。

分野が分野なので周りにも広義の創作活動が好きな人が多いのですが、創作活動をしている人たちってなんのために作っているんでしょうね。
先日先輩たちと話してスッと出てきた答えがわりかし気に入っているので、自分が創作活動をする理由について少しだけ書きたいと思います。

誰かを救いたい創作活動のこと

 今考えると大きなことを言いすぎていて本当に見ていて気持ちが悪いのですが、少し前までは私の作ったもので誰かに救われてほしいと思っていました。

「自分は別にそんなことないけど、ないけどね?どこかに救われたい人がいるなら力になれたらな〜って」

 誰かの辛い気持ちを救いたいと言いながら、誰のためでもなく、ただ自分は別の立場で救う側であると主張するものづくりは今思うと傲慢で、カッコ悪くて、それで良いものができるはずはないのに、と思います。
 ただ当時の自分を否定できるわけでもなく、その頃はその頃で大学に入って初めて触れたデザインの概念に対してどうにか自分ができることがないかと一生懸命でした。一生懸命にもがいているのに、誰のためにもならないものばかりが生み出されて、創作活動をするたびに、どうも私には何もできないようだという無力感でいっぱいでした。

誰も救わない創作活動のこと

 冒頭にあるように、今の私にとっての創作活動は誰かを救うためのものではなく、日々何かを見たり感じたりして心に溜まった澱を定期的にかき出すような役割として落とし所がついています。息を吸ったら吐くことが必要なように、それがいい感情でも悪い感情でも外に出してしまわないといけない、自分の構造の一環と捉えています。(例えば下のような絵は、自分が捉えた景色の美しさとそれに付随する記憶が大きすぎて、一人では抱えていられないとなって描いたりします。)

 どこかでターニングポイントがあったわけではなくて、冒頭の先輩たちと話していたタイミングまでしばらく、自分発信の創作活動をしていない期間(一年半以上、時間をかけた綺麗な絵をほとんど描かず、依頼を受けてみたり、ターゲットの決められたコンペに出してみたり)があいてふと、ポロッと、変化していたことに気づきました。

そうして気づいた、誰のためでもない創作活動は、いわば、誰も救わない創作活動です。

誰も救わない創作活動が掬うもの

 自分の作品で誰かを救いたい気持ちは、それまで本当に自分の真ん中にあって、それは私自身が他人の作品に救われた経験からきているものです。それがあまりにも呆気なく、知らないうちに変化していたので、しかも自分が変化していたことに後からツイートを見ている時だったので驚きました。

 それでも思い返してみると確かに変化はあって、今は創作活動をすること(=澱をかき出すこと)によって自分の中で一つ力が抜けるような、洞窟に風穴があいた時のような、ものを完成させてやっと、自分の肺いっぱいに息を吸い込めるような感覚を感じます。誰も救わない創作活動は、私自身を掬い上げていました。

今は自分の作品で誰かが救われなくても別に構いません。そうやって掬い上げられた自分が、誰かにちょっとでも優しくできたらそれでいいと思います。

そのために私は創作活動をするのです。


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