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生きていること、それだけで奇跡

生きていること、それだけで奇跡。

誰でも一度はこれににフレーズを見聞きしたことがあると思うんだけど、なかなかこれって実感するのは難しい。

でも、この表現は人類がいなくなる時代まで繰り返され続けるだろう。

生きていることが奇跡だといえれば、1日1日を大事にできる。

実践するのはやさしくないけど、とても大切な言葉だからだ。

大切なことだけど見失いがちなもの、それを何度も折に触れて目にするのは大切なことだと思うので、最近俺が良いなと思った『生きていることの奇跡』を綴る記事と作品を3つ紹介します。

① インタビュー 〜幡野広志〜

note読んでる人なら説明不要と思いますが、34歳で多発性骨髄腫という血液のガンを発症し余命3年と宣告された写真家で、『なんで僕に聞くんだろう。』で様々な悩みを抱える人たちに救いのメッセージを伝えられている幡野広志さん。

2020年2月29日に東洋経済のインタビューで以下のように語られていました。

――今何をしているときにしあわせを感じますか? 

朝起きたときはしあわせですね
。妻、息子、僕の川の字で寝ているのですが、朝の光を浴びながら目を覚まし、隣に寝ている息子を起こすとき、しあわせを感じます。それを毎日感じられるから、毎日しあわせです。夜になると怖くなりますが、明るくなる朝を迎えられるとほっとします。

――生きていると実感するのはどんなとき?

体調が悪くなればなるほど、生きている感覚を味わいます。健康のときって、「生きてるなあ」って思わないでしょ? 皮肉なことに、苦しければ苦しいほど、生きている実感が湧くのです。生きている実感は、案外死ぬ間際に感じるものかもしれません。

『なんで僕に聞くんだろう。』の中で幡野さんが人生のどん底にいると嘆いている人たちに対して、一歩引いた目線で、でも暖かな眼差しで語りかけを目にしていると、なるほどこんなシンプルな幸福の感じ方がそれを可能にしているのかもしれないと思えてくる。

『生きていることの奇跡』を感じられれば、悩んでいる人にかけられる言葉も、軽やかなのに深みのあるものにできるのかもしれない。

② 詩 〜神谷美恵子〜

続いて、臨床現場に立ち続けた精神科医であり、哲学書・文学書の翻訳やエッセイも多く残した神谷美恵子。

クリスチャンだった彼女が信仰をテーマにして作った詩をまとめた詩集、『うつわの歌』より2編をご紹介。

『残る日々』 神谷美恵子

ふしぎな病を与えられ
もう余り生きる日の少なきを知れば
人は一日一日を奇跡のように頂く
ありうべからざる生として

まだみどりも花も見ることができ
まだ蓮の花咲く池のほとりをめぐり
野鳥の森の朝のさわやかさを
味えることのふしぎよ

まだ身ぢかな人びとと言葉を交わし
彼らの愛に支えられ
無償のその助けの手に
数々の恵みを注がれる感謝

これぞこの世の美と人の愛
これぞ一生自分がひとに与えたく思ったのに
自分ではついぞ他に与えられなかったもの
すべては神よ、あなたからくるものであったのだ

(最後の病室に残された詩、1979年)

『残る日々』は、晩年に入退院を繰り返した神谷美恵子が死期を目の前にして作った詩。

幡野さんは、朝に川の字で寝る子どもを起こす時のしあわせを語っていましたが、神谷もやはり「野鳥の森の朝のさわやかさを 味えることのふしぎよ」と言って、朝の美しさを表現しています。

だいたい私たちが朝起きるときというのは、今日も仕事が嫌だなぁとか、まだ寝ていたいなぁとか思うのが普通です。
一日一日を大切に思えるためには、日々の中で見失いがちな家族への愛や感謝を忘れないこと、細やかな自然の美しさをしっかりと体感する感度と感性が、必要なのかもしれません。

『貧しき主婦の朝の歌』 神谷美恵子 

うつくしきかなこの日
神のたまえるこの日
天にはよろこびかがやき
地にはいのちのかおり

我何をもてみたさん
神のたまえるこの日
そのひとときひとときに
みいぶきのかよえるこの日

我ひねもすみ名を讃えん
神のたまえるこの日
裏に火起こすときより
子らのねむりつくまで

(1938年)

『貧しき主婦の朝の歌』は、いかにもクリスチャンといった詩句が並んでいます。
宗教を信仰していない人にとってはちょっと取っ付きづらい詩かもしれません。

俺はこの詩は、信仰の持つとても大切な力を表現していると思っています。

死を目前にするまで「生きていることの奇跡」を感じられない情けない我々人間たちに、「一日一日を ありうべからざる生として 奇跡のように頂く」ことを可能にしてくれるのが、本物の信仰なのではないでしょうか。

③ 歌 〜amazarashi  秋田ひろむ〜

最後はロックバンド amazarashiの『奇跡』
まずは何より聴いて欲しいです。

『奇跡』 amazarashi 

今夜生まれてくる命と死んでしまう命
そして懸命に輝く命と
無駄に生き長らえる僕
「こんな夜は消えてしまいたい」とよく思うけれど 
お前なんか消えてしまえ
何で今日まで生きてたんだ

無駄じゃないって思いたくて
此処まで無理して走ったんだ
この先もそうするつもりだよ
それも無駄になったらどうしよう
「こんな夜は消えてしまいたい」とよく思うけれど
今終わったら全部が無駄で
何か残したくて生きる

正解でも間違いでも
それが分かるのはどうせ未来
今は走るだけ

生まれたことが奇跡だったら
息をするのも 奇跡 奇跡
ここで笑うか 泣き喚こうが
どっちにしても 奇跡 奇跡

色んなことが起こるものさ
長く生きりゃそれに伴って
嬉しい事 楽しかった事
もちろん逆も同じ数だけ
「こんなはずじゃない」と思うのは僕らの傲慢で
引き金になった出来事が過去には無数に存在する
それを一々悔やんだって 今更どうにもなりはしない
核心はもっと深いところ 僕が生まれた所以に至る
父と母の出会いから もっと言えばその血筋から
そして最後に行き着く場所は 宇宙の始まり その確率

愛してます その気持ちは
どっからやって来て 何処へ消えるんだろう
何故消えるんだろう

愛されたのが奇跡だったら 愛した事も 奇跡 奇跡
幸せだった それでよかった 後悔しない 奇跡 奇跡

唇噛み締めて自分の無力さになす術もなく泣いた悔しさ
身体半分持ってかれるような 別れの痛みとその寂しさ
それさえも奇跡だと言えたなら 思えたなら
無価値な事も特別になる ありのままで奇跡だから

生きてることが奇跡だったら つまずいたのも 奇跡 奇跡
歩き出すのも 諦めるのも 好きにさせろよ 奇跡 奇跡
つまずいたのが奇跡だったら このもやもやも 奇跡 奇跡
立ち向かうのも 引き返すのも 僕らの答え 奇跡 奇跡

amazarashiの秋田ひろむは、生きている今が奇跡である理由の一つとして、
「父と母の出会いから もっと言えばその血筋から
 そして最後に行き着く場所は 宇宙の始まり その確率」
と歌っています。

さてところで、文学者・哲学者の内田樹先生は、最新の著作『サル化する世界』に関するインタビューにおいて、「今さえよければそれでいい」という近視眼的な倫理観の現代人への批判として「過去と未来を自分の中に引き受けること」の大切さを語る中で、このように言っています。

一神教信仰(*ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。(*100ミリットル追記)
https://bunshun.jp/articles/-/35353?page=2

内田先生は、宇宙の始まりにまで思いを馳せる人間の知的営みが、「人間の知性と倫理性の発動させる」きっかけとなったと言っています。
でも、宇宙の始まりにまで思いを馳せ、そこからさかのぼって自分自身の命がその途方もなく深遠な連なりの果てに存在すると認識することは、今まで見て来たような「生きていること、それだけで奇跡」という実感を支えてくれるものにもなってくれるのではないでしょうか。

一日一日は奇跡のようなものという実感をもつアーティストの表現に折に触れて触れ続けることは、「生きていること、それだけで奇跡」という物語を信じられるなっていくためのヒントになると思います。



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