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死にたい人々や生きたい人々が共生するこの世の中

先日、イントラで受け持った小学生の子が、驚くようなことを言ってきた。

「先生、私は死にたいです。私には才能が無いんです。漢字も覚えられないし、少数の計算も覚えられないし、私はやろうと頑張っているのにできないから死にたいんです。」

そう言われて僕は返す言葉に迷った。
「とにかく大丈夫だから、何も心配するな」としか言えなかった。

死にたい。自殺したい。

世の中にはそういう想いを巡らせて、毎日を自問自答している人がいる。僕にもかつて、そういう時期があった。1日の24時間が嫌で嫌で、何の目的もなく、ひたすら走った時もあった。

それから、時が流れるにつれて考え方も変化し、今現在に至る。今はまったく逆で、生きたくて生きたくてしょうがない。というか、むしろ、生きなければダメだろ。という状況に置かれている。

自分がまったくの独りだった頃、生きるとは何なのか、よく自問していたけれど、今こうして守らなければならない人たちがいる状況では、生きるとか死ぬとか、そんなまどろっこしい事を考えている暇すらない。今月の家賃はどうすればいいんだとか、車検の費用はどうすればいいんだとか、経済的な不安の方が気になって、面倒な事を考えている隙がなくなった。むしろ経済的に余裕があって、人生イージーモードの時の方が、余計なことまで考えてしまっていた気がする。

僕は親愛なるお爺ちゃんを交通事故で亡くした。それまで元気だったのに、ある日突然、文字通り本当に帰らぬ人となった。

それから10年ほど経ち、今度は実の父親が病気でこの世を去った。彼は人並み外れて、異常なレベルで生に対する執着心があり、終末期、佐久医療センターの死の床においても、常人ならば無くなっているはずの意識をしつこく保っていた。

彼らは、どちらかと言えば、ほぼ100%間違いなく、生きたいと思い願っていた人たちだろう。そういう人たちが、抵抗の甲斐なく、あっという間に亡くなってしまった。

何事も経験してみなければわからないということがある。子供たちも、死んでみたことがないから、死んでみようと思うのだろう。わずか5年や10年そこらの人生では、なかなか死ということに実感がわかなくて当然だ。

自殺願望や死にたい欲求を抑えさせるには、当人が「他人に共感する能力」を養う必要がある。人生がうまく行かなくて、面倒くさくなって死にたい、逃げ出したい、リセットしたい、そういった自分本位な考えでしかいないうちは、生と死の本質がわからない。人でも動物でも、生き物が死んだら悲しい、取り返しのつかないことが起きてしまったということを自覚してシンパシーを感じた時、初めて死というものが、じつに恐ろしい考えであると理解する。

日本では、一年間に2万人もの人たちが、自ら死を選んでいる。若い人たちはイジメやパワハラが原因だし、高齢者は生きる気力を失って人生をリタイアするようなつもりで自殺している。

そうやって死に急いでいる人たちがいる一方で、コロナウイルスの恐怖におののき、肺炎になりたくない、死にたくない、まだ生きていたいとパニックになり、慌てふためいている人たちもいる。

自殺したいと思っている人たちを留まらせることは難しい。これは、まだ生きたいと思っている人たちに、早く死んでくださいと頼んでも、誰も良い返事をくれないのと同じで、ある意味では、洗脳に近いものがある。

僕らが(僕は生きたいと思っている派の人間だが)何をできるかといえば、何も無いのが現状だが、共感するということはできる。世の中には、うまく言葉で説明できなかったり、相談できなかったりする人たちがたくさんいて、そういう人たちが死を選んでしまうという、その決定に至るまでの想いを感じ取り、彼らを思ってやることはできる。

生と死は紙一重。瞼の表と裏。瞳を閉じて想いを巡らせれば、いつか目を覚まし、再びその目を開くときが来ることを願う。

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