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やめることを決める

 ずいぶん間が空いてしまいました。
 さて、ここまでの振り返りです。
 自分自身を知り、事業を知り、それぞれの強み弱みを知りました。従業員のことも知る時間を作りました。
 さらに事業を取り巻く制約条件にどんなものがあるのか、確認してみました。

最初の決断

 ここまでは言ってみればリサーチ、調査です。リサーチの結果から次にしたことが「やめることを決める」でした。

 やめることのレベルも事業レベルから作業レベルまで様々あります。
 作業はすぐに今からでもやめることはできますが、事業となるとお客様もいらっしゃることです。今、やめようと決めても実際にやめるまでには時間がかかります。なので、できるだけ早めに決めるだけは決め、社内の合意を取る必要がありました。

事業のやめることを決め、残すことを決める

 やめることを決めるためには、何を残すか、つまり何が一番の自社にとってのコアなのかを同時に考えることでもありました。
 2000年代当時「スクラップ&ビルド」という言葉を父は好んで使っていました。しかし、わたしから見た状況では、当社にとって新しいビルドはまだ早いと考えていたので、どちらかと言えば「選択と集中」でした。何かをやめて、主たることに集中し、やめたものはやめたままにするのです。まずはスクラップすることができれば前進なのであえて「スクラップ&ビルド」という言葉も使っていきました。
 残されたリソースは集中すべき事業に回すということです。「事業を継ぐことを決めたとき」の記事内の比喩で言えば、火事で焼け落ちた母屋を建て直すことに集中するということです。

 その時に大事にしていたポイントはシンプルでした。
 その事業が今後も利益を生み続けられるのか。それだけです。
 自分たちのコアとなる事業が何か、組織のメンバーの強みは何か、制約条件はどうかを踏まえての組み合わせです。

 「立ち上げ」と同じくらい「撤退」を決断することは難しいことでした。多くの場合、次第に関わる人が減っていったり、業務を少しずつ改変してやらなくなっていったり、うやむやに事業が時間をかけて消えていくなどしていきます。そうすると失敗が学びとして組織に残らず、そのうやむやにする政治技術だけが社内に残ります。

 ※ここから先は少しばかり具体的な当社事例について触れることになります。


具体の話

 主に2008年当時の当社は派遣さんを入れると従業員数80人前後。売上にして10億。その中に小さいながらも三つの事業がありました。
 結果、その10年後の2018年の40期には売上は従業員は50名の約6億まで落としました。もちろん従業員数も、売り上げも維持しながら改善できればそれに越したことはなかったのですが、当社の実力では一度、圧縮する必要がありました。
 それらは事業構造と強み弱み分析から判断しました。

 積極的な人員整理というよりは、自然減に合わせて補充をしないという方向でとにかく耐えるという選択をしました。事業サイズが小さくなるということは、それに合わせてリソースを減らすということです。
 よって、指標として考えたかったのは、一人当たりの労務費への分配率、最終利益額、長期借入金の圧縮、投資効率、組織文化の改善(能動的行動の量・相互補完できているか)などでした。

内部環境の調査/強みを活かせるかどうか

 再び、リサーチです。自社にとって主たる事業は何か。内部環境を調べることからでした。それぞれの事業に従事する従業員のスキルや仕事に対する知識があるのか。組織の外から来たようなわたしが業務内容や事業内容について質問をして、的確な内容が返ってくるか。たとえ、その人が答えられなくても、会社全体がそれを支える仕組みを持っていれば誰かからの回答は得られるはずです。そういう状況かどうか。

 このうち一つのA事業はまばらだけれど、まあそれぞれに自信がありそう。もう一つのB事業はなんか答えようとはしてくれるけど、本質的な理解まではできていなそう(歴史も浅い)。最後の一つのC事業は作業者はもちろん、管理職も技術について詳しい説明ができない状況でした。
 また、設備投資の直近の傾向をみていくと最も安定的な利益を作り出しているA事業への投資はほぼなく、B事業とC事業に投資が集中していました。その割にB事業はリソースをかけすぎていましたし、C事業は全く成果が出ないまま2001年から2008年までほぼ放置されていた状態でした。

外部環境の調査/市場の傾向はどうか

 次に外部環境です。それぞれの事業の業界動向を調べました。そうは言っても、業界全体を調べるほどの調査力はありません。同業者の傾向や、業界情報誌、ターゲット市場の商品サイクルなどから仮説を立てるしかありません。

 たとえば2000年代、B事業とそこから派生したC事業の中心的な市場は携帯電話とテレビでした。
 2008年日本でiPhone3Gが発売された後でも、多くのメーカーは日本では携帯電話のボタンがなくなることはない、液晶画面だけの携帯電話などあり得ないと言っていました。それを信じて投資を続けた同B事業関連業者はその後廃業していきました。
 なおかつB事業は専門性は高く一見、付加価値は高いのですが、人の手数をたくさん使うため、人海戦術にならざるを得ません。
 テレビもまた、生産拠点は日本から海外に移行していました。中国でさえなくなっており南米やメキシコなどに移動していました。つまり、これからも継続的に日本企業が液晶テレビの製造に関わっていくことはないだろうという予想もできました。

 わたしの評価軸は、売上や規模・市場のスケールを重視するのではありませんでした。それよりも、わたしたちの仕事がお客さまにとってどれだけのメリットを生み出せるか。結果、それはわたしたちの付加価値=利益につながってくると考えていました。
 また、同時に当時は会社の存続のために「いま、利益をどう生み出すか」「そしてそれを維持するか」という考え方が重要でした。

 A事業をコアとして成立した当社もその市場は、ほとんどが電子機器など機械メーカーや電器メーカー向けでした。それらの市場へのパーツ提供を中心とした、ものづくりの会社だったわけです。
 市場志向で市場の要求からB事業やC事業が生まれました。しかしながら、B事業の外部環境は極めて不安定であり、C事業に至っては内部環境もプラスに評価できるものはありませんでした。

 そこでまず、C事業をできるだけ早く撤退することを決めます。特定の顧客がいたわけではなく開発だけが進んでいて、事業の伸びしろが少なかったのです。
 撤退までの期間は「2年」としました。

 こうしてやめる事業を決めました。

 B事業に関しては積極的な拡大はしないことと決めますが、すでに莫大な設備投資があったこと、また何社かの継続的に必要としてくれるお客様がいらっしゃったこと、従業員の継続雇用のためにはすぐに撤退することはできませんでした。


 振り返って

 B事業は現在も小さく継続されていますが、規模に依存しないように注意しています。
 結果的に当時の当社の場合はこの「選択と集中」の道しかなかっただろうと思っています。コア事業に一度立ち返って、そこからまた次のD事業、新たなE事業へ展開していく必要があったのです。
 そのための「やめることを決める」です。

 今思えば、時代的にも失われた20年とか30年の間は、「最適化」がキーワードだったのかもしれません。その会社にとっての最適化を行う上で、「選択と集中」戦略もあったし、「スクラップ&ビルド」もあったのだと思います。現在の「事業再構築」の話でもありますね。

 事業以外にやめたこと

 事業をやめることにあわせて、ほかにもやめたことがあります。管理部門だけの管理センターが少し離れた別の場所にありましたが、そこを離れ、元々過剰に投資されていた工場内の事務所に移しました。
 またB事業、C事業を拡大にするためにA事業が別工場に引っ越していました。それからまだ10年経っていませんでしたが、上記の決断に合わせて、A事業の工場も元の工場に戻しました。

 ほかにも目的を果たし終えた子会社がいくつかありましたが、それらはすべて解散させました。

 これらも比較的大きな決断でしたが、正直この決断の後からようやく本来の実力が出せるようになりました。決断してから時間は10年、15年とかかったものもあります。それでもまずは決めることです。決めたらどんなに障壁があろうと確実に一つずつ終わらせていくことを決めます。

 2000年頃には県内5拠点あったのを2015年3月までに1拠点に統合し、子会社も必要最小限にし、2023年までにようやく二つの会社を清算しました。
 
 はじめる決断はもちろん大事ですが、おなじくらいやめる決断は重要です。わたしは機動力のある中小企業だからこそ、どんどん新しいことをやってみますが、だからこそやりっぱなしにせず、やめることも同じスピード感で決断していくことにしていきたいものです。

 他にも「会議」や「社内制度」、「取引」も同じことが言えるでしょう。やりはじめてしばらく経ったものの目的と実態が合っていないものは、どんどんやめる決断しました。自分がやると決めたことも、ほかの役員がはじめたことでも、先代がはじめたことでも、遠慮する必要はありません。
 やめることでまたあたらしいことができるのです。

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