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事業を継ぐことを決めたとき

 はじめまして、こんにちは。シーベル産業というシール印刷会社を経営しています黒沼健一郎と申します。
 仕事の中では、事業承継の経緯を聞かれたときに話はしているのですが、そろそろ忘れないように、あるいは時間が経ちすぎて美化しすぎないように(もう充分そうなる可能性はあるけれど)できるだけ今の感覚で記述しておこうと思います。
 約5,000文字の比較的長文になりましたが、ビジネスにおけるわたしなりの自己紹介です。

会社の誕生とわたしの誕生 1976-

 一気に時代を遡ります。どうしてもここに触れないわけにはいかないので。
 1976年。北海道から上京した父は、いくつかの職を転々としたのち大手印刷会社に入社します。35歳になる年独立し、豆腐屋さんの跡地を買って自宅兼工場にしながら個人創業でシール印刷屋をはじめました。
 その年の秋にわたしは生まれました。母はわたしを背負いながら印刷機を見ており、背中のわたしはガチャコンガチャコンと比較的ゆったりとした60bpmくらいのリズムを子守歌代わりに育っていきます。
 1979年4月に「三光シーベル」として法人化し、1980年6月に会社が新しい用地を獲得して出るまで、わたしはインキの匂いと、機械のリズム音、数名の従業員さんが常に一緒でした。いわゆる家内工業です。わたしが4歳になる年までのことです。

建て直しているが、今もまだここが実家
立っているのがわたしです

会社とわたしの成長期 1980-1995

 時代はまだ高度成長期の名残とバブルまっただ中、父の行動力とビジョンはみんなを巻き込んで血気盛んな若者たちと一緒に会社はどんどん成長していきました。お客様はもちろんのこと、地域の人たちや金融機関にも助けていただき、1992年に現在の工業団地に進出するまで、過去の決算書を見る限りは順調に成長していたようです。
 わたしも中学を卒業し、この前後から「大きくなったら会社を継ぐんだから」とか何とかいう話を周りの大人から少しずつ聞かされるようになり、そのたびに心がざわつく思いがしたのでした。そんなことを勝手に決められても困るという思いもありました。
 勢いに乗っている50歳の父は、思い立ったらすぐやるその持ち前の行動力と強い思いで、周囲の声を聞くなどということはほとんどなく、現場からは遠ざかっていき、町政(議員)に興味を持ったり、より大きなフィールドに興味を持つようになります。
 当時は、親子の対話ができるような状態ではなく、結果だけがすべてという人でした。もちろんそれだけの成長はその勢いがあってのことだったと今では思います。しかし、当時のわたしはその時代の父のことはどうしても好きになれませんでした。

人との関わり、劇作家の道 1995-2000

 高校を卒業するころにはわたしは自分のやりたいことは決まり、心理士を目指そうとします。人の話を聴くということ、誰かと話をし何かが解けていくような思いをしたことがおそらくきっかけでした。
 しかし、実際には心理学科には受からず、いろいろあって一年使い、なぜかわたしは演劇学科の劇作コースに入学します。ここに受かったことに運命のようなものを感じ、この道に進むべきだと自分でも思いました。心理士とは異なる形でも人と関わり、人の営みを考えることが出来ると考えたのです。とはいえ、このあたりは横道に逸れすぎるので、また別の場所で書きましょう。いずれにしてもわたしは自分で劇団を主宰し、人を集めて公演を行うようになります。

第5回目の公演(中野にて)

 この間、会社は順調に成長し、わたしはわたしで好きなことをさせてもらいます。周りの環境に恵まれて、先輩やら同級生たちから学ばせてもらって、演劇にしばらく真剣に取り組んでいました。卒業後もバイトをしながら続けました。
 会社もこの頃1996年にいまの会社名「シーベル産業株式会社」に変更されました。

転機、中国へ 2001-2005

 2001年4月通算6本目の公演を上演して、自分の劇作の限界を感じていました。自分の実力の限界は、自分が生きて感じて考えてきたものしか書けないことと深く関係しています。自分のすべてを作品に乗せるタイプでしたから、自分の体験の応用からしか書けないのです。(今ならリサーチという手法もあるとわかるのですが)
 また私生活でも、今後の人生をどう過ごしていくか考える必要もありました。
 2000年頃から父とはインターネットのメールを通じて、なんどかやりとりするようになっていました。そのやりとりのなかで、中国の大連市に子会社をつくることになったから、そこで立ち上げを一緒にやってみないかという話がありました。とにかく一度見てみないかという誘いを受けて、2001年夏にわたしは当時交際中の妻も連れて、大連に行きます。そこで圧倒的な社会のエネルギーを感じました。
 劇作家として尊敬する満州生まれの方々も多く、その人たちがどういう場所で過ごしたのだろうという純粋な興味もありました。ひとまず新しい環境に身を置いてみたいという思いもありました。
 2001年の12月、7回目の公演を行ったあと、一旦就職して(あくまでも一旦のつもりでした)、群馬に引越をし、ひととおりの研修を受け、年末には入籍しました。今振り返ってもこの一ヶ月は人生で最も忙しい一ヶ月間でした。
 あとでわかることですが、この時の当社の状況は、売上こそ過去最高でしたが、将来に残る大きな赤字をつくっていました。今考えれば、いつ潰れてもおかしくないような状況で、組織もほとんどまともに機能していませんでした。この時の歪みがずっと後を引くことになります。もちろん、その雰囲気は肌で感じられ、わたしはより一層この会社で勤め続けることはないだろうと心理的な距離は感じていました。
 2002年の春から2005年の春まで夫婦で3年間、駐在し、大連での生活を過ごします。

2004年当時の大連シーベル

 この間に、中国語を覚え、印刷の仕事を覚え、営業を覚え、中国文化を学び、中国の経理を学びます。今となってはまだ若かったからこそできたことだと思います。いろんな人に助けられ、またいろんな人が通り過ぎていって、おそらく人生で最もストレスフルでスリリングな三年間でしたが、とても充実していました。インターネットはまだISDNで何とかつなぎ、日本のウェブサイトをめぐることが唯一の楽しみでした。(スマホも当然ありません)
 ほぼ同世代の現地の社員たちとも仲良くなり、ときに喧嘩し、一緒にお客様からの難題にどう答えられるか必死に考えました。このときの経験はビジネスをすることの根本的な楽しさと有意義さを感じさせてくれました。

帰国、子会社と経営企画室 2006-2009

 帰国後、印刷の仕事に興味を持ちつつ、東京で演劇を続けたいわたしは、都内の印刷専門学校に通いながら、本社の社員として働き、夜は演劇の稽古を行っていました。
 経営についても同時に学んでいき、自社について調べていくとどうも決算書は大変なことになっているのではないかと思い始めます。最初は印刷技術やデザインのことなどばかりに注目がいっていましたが、経営を考えるきっかけでどうもおかしいぞということに気付いたのです。
 その時にはもう手遅れと言ってもいい状況でした。群馬の本社で行われる会議はいつもひどい空気で、誰もがうつむき時間をやり過ごすというまともな状況ではありませんでした。
 演劇をつくるプロセスにおいて、このような状況でいい上演ができるわけがありません。上演までのプロセスは多岐に渡り、それぞれのプロセスでキャスト・スタッフと合意形成がうまく回ってはじめて協同して一つの上演ができます。それが当たり前の世界でしたから、この会社の中のコミュニケーションが信じられない状況でした。

 父はそれでも現状を分析することよりも行動すれば何とかなると言い続けていました。あの1990年代のあのころのマインドセットのままでした。そのような姿勢を見せることがおそらく父の自分の仕事だと考えていたのでしょう。その厳しい状況のなかでとにかくやるしかないと攻めの姿勢を崩しませんでした。

 2007年春に群馬に戻り、子会社でデザイン事業を見つつ、本社の経営企画室として過去の決算書と今の状況を繰り返し往復しつつ経営を考えることになりました。どう考えても運任せの経営で、無駄も多く、借入金も莫大に膨れあがっていました。とにかく借金を返すために、また金融機関から資金調達をしなければキャッシュは回らない状況でした。

 わたしは人との関わりが好きでしたし、これまでの経験を生かすならばと、組織の中ではたらく人に注目しました。この時代、ほぼ全員が他責思考、あるいは無関心でした。そうなっても仕方がない環境でした。
 ただ、ひとりひとりを知っていくと、この厳しい環境のなか自分のできる範囲で何とか舵を取っていた役員、自分の仕事には責任をもつ技術者、直接お客様と話ができる営業マン、一人一人は素晴らしいこともわかってきました。それが、組織となるとまったく機能しておらず、自分は頑張っているが自分以外は全部問題と誰もが思っていたように思います。

決心 必要とされる仕事へ

 このときあたりから決心をしていたように思います。自分が好きなことをやらせてもらったことも、印刷という仕事を通じて誰かの役に立てたことも、生まれてからこれまでの期間、すべてこの会社に成長させてもらっていたのだと気付きます。
 自分がやりたいことを仕事にするだけではなくて、わたしがこの会社に求められているならば、こうして働いている一人一人の素晴らしさに応えるためにも、わたしのほうが合わせていけばいいのではないかと思いはじめました。
 火事が起きているのに、まともな消化活動や復旧活動を行わず、横に家を建て増ししているような状況で、何よりわたしがやらなければもうこの会社は社会的にはダメなのだと確信していました。

 ただ、それにはどうしても話を付けなければならない人物がいました。父である社長です。わたししかハッキリとものを言える人はいませんでした。
 これまでも何度も繰り返し、経営企画室としての提言はしてきましたが、父のスタンスは変わりませんでした。過去の成功体験が変化を止めるとはよく言いますが、まさにその状態だったと思います。
 完全に心を決めたのは2009年の春か夏のことだったと思います。33歳のわたしもやるからには自分の全人生をかけてこれまでの会社の借金やあらゆる負債を適正なレベルにしようと決めました。それにはおそらく30年はかかるだろうと思っていました。
 何度となく話し合いました。理想論だと鼻で笑われ、二代目は守りに入るからダメだと繰り返し言われ続けました。今でこそ笑って話せますが、わたしのアイデアは消火作業や復旧作業からでしたから、新しい家の建て増しを行いたい父にはまったく響きません。
 途中壮絶な喧嘩もありました。それでもとにかく現状の数字の事実はいやおうなく毎年結果として出てきますから、本人もどうにかしなければならないと少しずつ思っていたのかもしれません。
 2009年10月の決算期はリーマンショックの年でした。過去最悪の業績となったその責任を取るというかたちで2009年の12月の株主総会にて、父は代表を降りて会長職に退き、わたしが代表取締役社長に就任しました。

社長就任後 2010-2019

 ここからはどうやって立て直していくかの10年間でした。このあとに改善や組織開発、教育などが具体化されていきます。
 この連載では、どこから手を付けたらいいかわからない後継者や事業責任者のみなさんのわずかながらでもヒントになればと思い、わたしが取り組んだ改善について、少しずつ整理していこうと思います。


おわりに

 ちなみに2022年10月期決算では30年かかると思われた負債も適正レベルになりました。とはいえ、新しい段階に入り、わたしもここから先どのように経営の舵を取るか非常に重要なターニングポイントを迎えています。
 何しろ、マイナスをゼロにするための努力はゴールが明確です。しかし、ここからはプラスを創造しつつ、同時に働く人をはじめとするあらゆる関係者の幸福も考える必要があります。
 改めて、企業の適切な成長はもちろん、創造性や人間性の回復、ビジネスによる社会貢献など総合的に捉え、これからも試行錯誤して進めていくことになります。
 ラベルそのものはもちろん、経営も、マーケティングも、印刷技術も、デザインも、組織開発も、改善も、体験設計も、商品企画もあらゆることがわたしのなかではこれまでの経験とつながっています。ようやくひとつになって新しい自分の道を進めるようになりました。

 長い自己紹介文になりました。お付き合いありがとうございました。

シーベル産業株式会社
代表取締役社長・黒沼健一郎


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