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夜走る

 小学生だった時分のこと。
 祖父母宅を出てじきに、帰ってから食事の用意を始めたのでは遅くなるからと母が云い出して、近くの料理屋へ入ったことがある。
 昔のことだからあんまり判然しないけれど、県病院前の『かなわ』という店だったと思う。
 カウンター席の他にテーブルが二つか三つくらいの小さな店で、店内のテレビで野球の中継をやっていた。前々から見知ってはいたが、実際入るのは初めてで、何となく、母はこういう店は好きではないだろうと思った。

 父と母と妹と、そこで何を食ったかは覚えていない。釜飯屋だったはずだけれど、小学生の自分が敢えて釜飯をそういったとも思えない。きっとうどんでも頼んだのだろう。

 みんな食べ終わり会計する段になって、父も母も財布を忘れて来たとわかった。
「ちょっと、お父さん財布ないの?」
「忘れて来た。立て替えてくれ」
「えぇ……、私も忘れて来たわよ」
 というやり取りの後、店の人に事情を説明して母が祖父母の家まで小走りに戻って行った。

 父と妹と自分は、店で黙って待っていた。子供心に、随分格好が悪く、また居た堪れないような心持ちだったのを覚えている。
 どういうわけだか母が父に怒って家を飛び出した時のことを思い出した。そうしてこのまま母が戻って来ないのではなかろうかという気がしてきて、段々不安になった。
 テレビは相変わらず野球を流している。父は黙ってそれを眺めていた。もしかしたら単に見入っていたのかも知れない。
 それから「ふぅ〜」と溜め息をついた。

 結局母は戻り、謝りながら会計を済ませた。父もすみませんでしたと云って、苦笑いをした。
 店主は「いえいえ、ありがとうございました」とにこやかに言った。
 帰りの車中で、「まさか二人とも財布を忘れるなんてねぇ」と母が笑った。

 去年の暮に帰省した際にふっと思い出して、珈琲を飲みながらその話をしたら、「あの時はびっくりしたね」と母はまた笑った。

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