車窓から(その5) 〜戦い、流血坊主


草津で睨み合う

 野洲という駅は初めてだったが、その次の停車駅が草津だったのには大いにがっかりした。

 草津には昔、しばらく滞在していた。
 パスタ屋の店長を辞めた後、工場へ人を派遣する会社に派遣する側で入社した。大阪の営業所に配属されたが、最初の1カ月ほどは「現場研修」と称して、草津にある取引先の工場に入れられた。そこで派遣スタッフに混じって、エアコンの室外機を作っていたのである。

 工場と派遣社員寮は少し距離があったから送迎バスが出ていたのだけれど、どういうわけかその運転手の態度が妙にえらそうで、それが最初からどうも気に食わなかった。
 ある日の帰り、運転手が自分に「前(の席)に座れ」と言ってきた。依頼や相談ならばともかく、命令される謂れはない。「知るか」と答えて後ろへ座った。
 次の日から彼は乗り降りの際に敵意のこもった目を向けてくるようになった。こちらも負けるわけにいかないから、同じ目をして見下ろすことにした。仲良くなった派遣スタッフが、こんな社員見たことない、と云った。

 草津~大阪間はその頃何度か往復しているし、大阪~広島間は大学時代の帰省で在来線を使ったことがある。だから今回の旅路における初めての行程はここまでで終了したことになる。名古屋を出てからわずか1時間あまりだ。がっかりしたのはそのためである。
 実にわくわく感は減じてしまったが、そんなことを云っても仕方がない。通ったことがあるといったって10年も前のことだから、今では随分変わっているかも知らん。そう思って気を引き締めた。

 じきに滋賀から京都を抜けて、高槻に着いた。

高槻の坊主

 高槻は先述の派遣会社で最初に配属された場所だから、ここまで来るともう完全に見知った土地だ。

 当時の上司フランクリン・ヒル氏とは年齢が近く、またヒル夫人が自分と同じ広島出身であったことから休日にしばしばヒル家に招かれ、同僚のモンキー君も交えて麻雀にうち興じた。平和な日々だった。転職してよかったと思った。

 ある時、ヒル氏が出会いサイトにうつつを抜かし始めた。
 仕事中はもちろん、一緒に昼飯を食いに行ってもずっと携帯電話をいじっている。終業後もそうやっていつまで経っても帰ろうとしない。そうして休み明けには「20歳の子と会った! ドライブした!」などと、訊きもしないのに言ってくる。
 まるで興味はないけれど、あんまり嬉しそうだから「で、大人の関係になったんですか?」と言ってやると、「…いいや」と返ってくる。そう言う時だけ元気がなかったから多分本当だったのだろう。

 このままだといずれ大変なことになるだろうと思っていたら、ある朝突然、ヒル氏が坊主頭で出社してきた。おまけに右手に包帯を巻いている。

 部下一同が「どうしたんですか?!」と訊いたら、包帯を睨めつけながら「かみさんにバレた。ケータイもへし折られた」と言ったぎり、悲しい目をして俯いた。

 携帯電話をへし折られたのは理解できる。坊主頭は、夫人に反省の意を示すためにその場で自ら丸めたか、夫人によって強制的に丸められたか、きっとそんなところだろうとわかる——いずれにしても刈り方が雑だったから、素人の仕事であることは間違いない——。

 問題は右手の包帯だ。当の本人は貝のように口を閉ざして俯いているばかりだから甚だ判然としないが、どうも逆上した夫人に切りつけられたように思えてならない。剣呑だから今後はヒル夫妻に関わらないことに決めた。麻雀をやりに行って、「お前はこいつの出会いサイト遊びを黙っていたろう?」と云って切り付けられてはかなわない。

 それからじきに自分は大名古屋へ異動を命ぜられた。ヒル家がその後どうなったのかは知らない。

 そんなどうでもいいことを思い出しながら大阪を駆け抜け、兵庫の相生に到着した。

to be continued...

初出:2010年1月7日『論貪日記』



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