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賀茂鶴

 オーウェンさんが次の月曜日を最後に退職すると聞いたので、餞別に酒を贈ることにした。
 これまで職場を去る人へ手向けなどしたことはなかったけれど、オーウェンさんには随分世話になった気がする。何かしておかなければきっと後悔するだろうと思ったのである。

 車で酒屋へ向かう途中、信号待ちをしていると、鰻屋の前に老人が座っていた。きっと奥さんが店内で注文して、出て来るのを待っているのだろう。
 ところが一瞬目を離した隙に、老人の姿は消えてしまった。後には扇風機が置いてあるばかりだ。扇風機といっても、業務用の大きなものである。羽がオレンジで、全体に煤けている。何だか先刻見た老人の服装と色合いが似ている。
 どうやら自分は、この扇風機を老人の姿に見間違えたものらしい。
 それで葛山のことを思い出した。

「百さん、ちょっと、まじやばい」
 葛山は事務所に戻るなりそう言った。やばいと云う割に、顔は半笑いである。
「どうしたね?」
「さっき、倉庫の前でA社に送る販促物を梱包してたんですけどね」
「うん」
「斜め後ろにいるのが岩本さんだと思ってずっと話してたんですよ」
「ほぉ」
「そしたらね、三角コーンでした」
「ぶっ」
 葛山はどうだと云わんばかりのしたり顔でニヤニヤしている。自分は何だか悔しいような心持ちになった。
「君、話を作ったろう?」
「作ってないです」
「ずっと話してたって、一人で話しかけてたのか?」
「そうです」
「何のリアクションもないのにか?」
「そうなんですよ。ずっと話してるのに、全然反応がないからおかしいなと思って……」
「思って?」
「……振り返ったらコーンでした」
「ぶっ」
 自分は愈々いよいよ悔しくなった。
 葛山はその翌年に会社を去った。

 オーウェンさんには賀茂鶴を贈ることにした。
 賀茂鶴は広島の西条の酒である。西条には社会に出たての頃に配属されて住んでいたから、半ば地元のような気がしていて、酒を贈る時には大体これを買う。
 ただし自分であんまり飲んだことがないから、美味いかどうかは知らない。


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