ニライカナイ
十年ばかり前に聞いた話。
職場は辺鄙な所にあって駅からも遠いので、みんな車で通勤するのだけれど、木田君は電車で通っていた。
ある朝、改札を出ていつものルートを歩いていたら、段々腹が痛くなってきた。コンビニでもあればトイレを借りるところだけれど、周りには田圃があるばかりである。
どうも困ったことになった、このまま職場まではきっともちそうにない。
次第に吐き気も現れて、脂汗を額に滲ませながら、ようやく畦道を抜けたところへ種苗店があった。ここでトイレを貸してもらえないだろうかと思ったら、ちょうど店主らしきおじさんが新聞を取りに出て来た。
渡りに船とばかり事情を話してお願いしたら、店主は面倒くさそうに「ん」と云って、顎で玄関を指した。商売人の癖に随分愛想がないと思ったが、そんなことを気にしている場合ではない。
ドアを開けると右手にトイレがあり、そこでどうにか生還したのだそうだ。
「いい人に巡り会えて良かったじゃぁないか」
「丁重にお礼を云って来ましたよ」
それから三年後に、木田君は辞めてしまった。
その後、自分も電車で通勤することになり、改札を出て歩いていると、ふっとその話を思い出した。
全体、木田君がトイレを借りた種苗店はどこにあるのだろうかと探してみたが、畦道を抜けたら民家が並んでいるばかりで、そんな店は見当たらない。念のため違うルートを歩いてみたが、やっぱりない。
事によると腹が痛くて困っている人だけが辿り着ける場所なのかも知れない。
その代わりに、隠れ家みたいなカフェを見つけた。田圃の脇にこんな洒落た店があるのかと大いに感心したけれど、営業時間が平日の九時から十七時と随分短いものだから、一度も入ったことがない。
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。