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牛と道理

 小一の時、家族で新幹線に乗って東京へ行った。東京も新幹線も、これが初めてだった。東京には従姉妹が住んでいたのである。
 父は初日だけで広島へ帰った。自分らは三泊ぐらいしたと思う。
 何日目かに、母は叔母と買い物に行き、自分は叔父に連れられて従姉妹らと上野動物園へ行った。
 その時分、上野は日本で唯一パンダのいる動物園だった。
 パンダの前はやっぱり大変な混みようで、スタッフがメガホンを持って「立ち止まらないでください」と言っている。
 だからみんなゆっくりぞろぞろ歩きながら見るのだけれど、こちらは何しろ小一だから、パンダどころか檻すら見えない。
 檻の前で叔父が体を持ち上げてくれた。
「見えるかい?」
「うん」
 見るには見たが、パンダは後ろを向いて寝ているところであった。これでは牛を見るのと変わらない。

 帰りの新幹線で腹が痛くなった。
 最初は我慢していたけれど、どうも治まる様子がない。しようがないのでトイレへ行くことにした。
 自分の席は三人掛けの真ん中で、母は窓側で妹を膝に乗せている。通路側には知らないおにいさんが座っていた。
 立ち上がって「すみません」と言うと、おにいさんは荷物と足を退けて前を通してくれた。

 席へ戻ってからじきに、靴下が汚れているのに気が付いた。右のくるぶしに何かが着いているのである。
「これ、何じゃろうね?」
 母に見せたら、「それ、うんちじゃない!」と、声を潜めながら驚いた。
 確かに茶褐色で、そんなふうに見えないこともない。ただ、どうしてこんなところにうんこが付着するか、どうにも釈然としない。けれども本当にうんこだったら、そのままにしておく法はない。
「じゃぁ、トイレで拭いてくる」
「拭いても落ちないから脱ぎなさい」
 脱ぎ始めると、さらに「汚れを内側にして丸めながら脱ぐのよ」と言った。
 云われるまま丸めたのを、母はビニール袋に入れて口を縛った。
 自分はそこから広島まで裸足にスニーカー履きで帰った。
 今考えても、くるぶしにうんこが着く道理はないから、きっとあれは何か別の汚れだったろう。

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