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想いを割る

 小学校の低学年だった頃だと思う。ある時、どうしてそんなことをしていたのかはもう覚えていないけれど、ベランダから通りを眺めていた。
 ふっと目を上げると、向かいの二階窓から藤井の婆さんがニコニコしながら手招きしている。
 藤井さんのところには子供がいないから、この家の人と接したことはこれまでない。だから婆さんも藤井の婆さんというだけで、知っている人ではない。それが随分ニコニコしながら手招きをするのは、何だか不思議な心持ちがした。
 家に入って「向かいのお婆さんが呼んでる」と言うと、母は「え?」と訝しんだ。そうしてベランダから、婆さんと何だか話しだした。
 通り越しにどういうやりとりをしたのかわからないが、じきに「行っといで」と言うので、自分は玄関を出て藤井さんの家へ行ってみた。
 そうして呼び鈴を鳴らすと、婆さんがやっぱりニコニコしながら出てきて、お菓子の袋詰めをくれた。祭りか何かでもらったものらしい。
「ありがとう」と受け取って、すぐに帰った。
 藤井家の人に接したのはこの時きりである。

 婆さんの息子は長く独身だったが、年がいってから同じ町内の人と結婚した。相手は中原の母親だった。
 中原は自分の同級生の女子である。小学校で一度同じクラスになったが、話したことはまったくない。あんまり友達がいる様子でもなく、甚だ地味な印象だった。
 聞いた話では、中原の家は生活保護を受けていたそうだが、それにしては暮らしぶりが優雅なようだと、親の間では語り草だったらしい。
 藤井さんが亡くなった後、向かいの家には暫く中原のお母さんが家族と住んでいたが、じきに土地を売って出て行った。
 今は別の家が二軒建っている。昭和の建売一軒分のスペースに、今は二軒建つのだなぁと、帰省するたびに感心する。こういう場合、土に染みた人の思いはどうなるのだろうかと考える。
 あの時婆さんからお菓子をもらったのは、今の右側の家の玄関辺りである。


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