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 出張先で宿を取ろうとしたら、いつものビジネスホテルが満室で取れなかった。よそもみんな満室のようだ。どうも何かのイベントがあるらしい。普段であれば事前に予約しておくのを、今回はうっかり忘れていたのである。
 スマホからあちこち探して、五駅先にようやく空室を見つけたので、急いで予約を入れた。
 ホテルの名前に何だか覚えがあるようだと思ったら、十年前に本を借りた所だとわかった。その当時、自分の母校の図書館がビジネスホテルとのコラボイベントで、一般に向けて本の貸出をやっていたのである。
 大学の図書館がどういう必要があってそんな事をするものか、またホテル側も全体何のメリットがあるものか、甚だ疑問であったけれど、たまたま訪れた先で母校の名前を見たものだから懐かしくなり、自分は一冊を借りた。
 返却は郵送で良いということだったので、近所の郵便局から送っておいたが、しばらくして図書館から連絡が来た。本がまだ届かないのだと云う。
 こちらは間違いなく送ってあるので、そんなバカな話はない。そう云ってやっても、先方は届いていないの一点張りである。そのやりとりを繰り返すうちに面倒になり、ついにそのまま放っておいた。図書館の方でも諦めたのか、じきに何も云って来なくなった。そのまま十年が経過した。

 チェックインの手続きをしていると、受付の女性スタッフがパソコンを見て変な顔をした。
「お客様、過去に当ホテルをご利用の際、本をお借りになったという記録があるのですが、ご返却はお済みでしょうか?」
「あの、K大図書館とコラボした時のですか?」
「左様でございます」
「郵送で返しましたよ。図書館からは届いてないとかしばらく云って来たけれど」
「かしこまりました。少々お待ちいただいてよろしいでしょうか」
 スタッフはそう言うと、どこかへ電話をかけて何やら話し出した。
 そうしてしばらく話して受話器を置くと、「当ホテルのマネージャーが直接お話ししたいそうです」と何だか面倒なことを言い出した。
「ちょっと待ってください」
「何でしょう?」
「マネージャーのお話とは、やっぱり本の返却のことですか?」
「はい。恐らく」
「こちらは確かに返却したんですがね」
「そういうことは私には……」
 スタッフ女子は何だか気の毒そうな顔をした。すると、どこからか微かに、生臭いような嫌なにおいがした。
「……マネージャーさんは、もしかして怒っているのですか?」
「さぁ、それは……」
「本の所有者はK大図書館なのに、おたくのマネージャーさんから怒られる筋合はないですよね?」
「あの、現在のマネージャーは、図書館イベントの責任者でした」
 責任者ということは、未返却とされる本についても責任を負わされたのだろうか。そう思ったらまた、魚が腐ったような嫌な臭いがした。先刻よりも少し強くなっている。
「結局どっちなんですか? 怒っているのか、いないのか?」
「申し訳ございません、マネージャーが怒っているのかどうか、私には判りかねます」
 こいつ、と思ったが、それ以上追及したって始まらない。
「で、そのマネージャーは?」
「もうじき参ります」
 嫌な臭いがさらに濃くなった。一度まともに吸い込んでえずきかけた。
「この臭いは何ですか?」
「はい? 何かにおいますか?」
 どうもとぼけた女である。
 マネージャーはなかなか現れない。その内に悪臭はいよいよきつくなって、自分はハンカチを口に当てた。けれどもその臭いは、わずかな隙間からも入って来た。
 スタッフ女子は平気な顔をしている。よく見ると、眼玉が全部黒目になっているようだった。

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