『すずめの戸締まり』はnot for meだったが、それはそれとして最高にSLAM DUNKだった話。
はじめに
順を追って話す。
先日、Twitterで知り合った『あのときのとき』さんがこんなツイートを投げていた。
アニメ『SLAM DUNK』の主題歌『君が好きだと叫びたい』の大サビだが、このツイートはSLAM DUNKを語る文脈のものではない。
新海誠監督の『すずめの戸締まり』を語る文脈での発言だった。
この人はnote記事やパルプ小説の優れた書き手だが、それでいて四六時中胡乱なネタを言いまくる人でもある。ベクトルの矛先は不明だが馬力はすごい。言うならひとりで『深夜の馬鹿力』とか『ファミ通町内会』とかをやっている感じだ。
そういう人の発言だから、おれはてっきりいつものネタツイートだとばかり思っていた。すずめの戸締まりにも新海誠にも興味の無いおれは、何の気なしにこの発言に乗っかって「この歌詞通りの熱血展開なら観に行きたい」とツイートした。
すると、御本人から返信が来た。
驚いた。ネタかと思いきやかなりマジメな発言だったらしい。
上述したとおり、おれは新海誠の作品に興味が無い。いや、興味が無いというのは嘘だ。正直に言うと毛嫌いしている。
『秒速5センチメートル』の主人公の二股クソ野郎ぶりにうんざりし、『言の葉の庭』のあらすじを聞いただけで蕁麻疹を発症した事で、おれは重度の新海アンチと成り果ててしまった。流行り物を嫌う悪癖も相まった事で『君の名は。』も『天気の子』も完全にスルーし、未見のまま今の今まで生き長らえてしまっている。
反面、おれはSLAM DUNKというマンガが大好きだ。だいたいのセリフやシーンを諳んじる事ができる程には何度も読み返している。
「戻れっ!! センドーが狙ってくるぞ!!」のセリフを見れば完全勝利の快哉を叫びたくなるし、「ま……そっちの方が似合ってるよ おめーには」の一言を見れば不器用な友情に目が細まる。そんなレベルでSLAM DUNKが大好きだ。
おれの嫌いな新海誠の作品が、おれの大好きなSLAM DUNKでもある。明らかに論理が破綻している。
だが、あのときのときさんはそれが真であると大真面目に言われている。おかしなことを言いまくる人だがコンテンツ語りには誠実なお方だ。おれをペテンにかけよう意図があるはずも無い。
別に新海誠作品を観なくても生きていける自信はある。
だが、この不可解に目を背けたまま生きていける自信は無い。
そういう訳で、『すずめの戸締まり』を観てきた。
以下にあらすじと感想を記す。
タイトルにも書いた通り、残念ながらこの作品はおれにnot for meだった。はっきり言うと感情移入できなかった。
この一言で終わっても良いが、せっかくカネと時間を使ったので感情移入できなかった理由を深掘りしてみる。推定3億人の新海誠ファンに敢えて中指を突き立てるつもりはないが、忖度するつもりも同様にない。
差し当たって、理由を3点挙げる。
各点について、思うところを語る。
①すずめが草太に惚れた瞬間がわからない
本作を視聴して真っ先に抱いた違和感がコレだった。
すずめと草太が命がけで災厄封じの旅を送ってきた事、それ自体はよくわかる。旅路の描写に不足はない。だが、その旅路のどの場面ですずめが草太に惚れたのか、恋に落ちたターニングポイントはどこだったのか。それがおれには皆目わからない。
詳細は伏せるが、草太は物語の中盤終了間際でかなりヤバい窮地に陥る。その辺りを皮切りにすずめが草太への想い(=明らかな恋愛感情)を叫ぶようになるのだが、おれにはどうしてもそれが理解できなかった。
草太は長髪の美男子だ。危険極まりないミッションである『戸締まり』を単身でやってのける度胸と覚悟を持ち、しかも女性や子どもへの包容力も持ち合わせている。ほとんど真の男と言っていいほどのイケメンぶりだ。
だが、それで即ヒロインのすずめが恋に落ちるというのはやはり違うだろう。おれの邪推でしかないだろうが、制作陣や視聴者のマジョリティはもしかしたらこう思っているのかもしれない。
敢えて言う。おれにはわからねえ。
断っておくが、別に草太のイケメンぶりにひがんでいる訳じゃない。むしろ草太は男のおれが見ても厭味のない好青年だ。そりゃ大抵の女は惚れるだろうと思う。
だが、それはあくまでも『素質』の話だ。そいつがヒロインに惚れられる可能性とか下地を持っている、ただそれだけの話でしかない。そいつの素質がいかに多く、かつ強力なものであろうと、それで即ヒロインが恋に落ちるというのはどうにも説得力が感じられない。
現実の恋愛なら何となく惹かれていったケースの方が多いくらいだが、この作品はフィクションで、エンタメで、何よりラブストーリーだ。
ラブストーリーを観に来たおれは、主人公が恋に落ちるその瞬間をこそ見たい。「ああ、ここで主人公は恋に落ちたのね」という具合に、ラブストーリーの導線(予定調和)にキッチリ乗っからせてほしい。その描写があってこそ、中盤での別離やラストでの再会に感情移入ができるようになる。
ラブストーリーの一連の流れ、外せない王道や予定調和の一環として、主人公が相手に惚れるシーンは空気のように欠かせないものだ。おれはそう思っている。
だからこそ、この作品は非常にもったいないと感じた。見た目も中身もイケメンな草太と危険な旅を続けていながら、ヒロインのすずめが明確に恋に落ちた瞬間が描写されていない。パーフェクトなお膳立てがなされていながら、肝心のお膳には一つも箸がつけられていない。
それらしい言動やアクション、草太の言動にすずめが頬を赤らめるとか動悸が早まるとか、そういうベタな描写を少しだけ入れてくれればそれで良かった。そういう”相手を恋愛対象として意識する”描写がひとつまみでもあれば、おれはラブストーリーの観客として十分納得したし満足したに違いない。
しかし、そういう描写は一切なされないまま物語は進んでいく。
やがて中盤のクライマックスで草太はどえらいピンチに陥り、すずめは号泣しながら喉も裂けよとばかりに「草太さあん!!!!!」と想い人の名を張り叫ぶ。そしてその有様を観ていたおれは、ポップコーンをつかもうとした手を止めて「あ? 何で??????」と困惑する。
ちょっと待てお前どのタイミングで草太に惚れたんだ。その取り乱し方はどう見たって旅のパートナーじゃなくて恋人のピンチに対するそれだろ。いや惚れるのは全然良いよ。何ならこっちもそれを観に来てるまであるんだよ。でも肝心の恋に落ちたシーンがこれまで全然なかったじゃん、それなのに何でいきなりヒートアップしてんだよ。えっえっなにこれ全然エキサイティングじゃない。完全に他人事。
推定5億人の新海誠ファンに好んで喧嘩を売る意図はない。だが、おれが主人公に感情移入するタイミングを見失ったまま中盤のクライマックスに放り込まれ、激しく困惑した事はまぎれもない事実だ。
繰り返しになるが、ラブストーリーのお膳立てが完璧だっただけに惜しまれる。本当に惜しまれる。残念でならない。
②『閉じ師』が草太しかいない
あらすじでも述べたが、『後ろ戸』という代物はとにかくヤバい。放置していたらそのうち勝手に開いて大地震を引き起こす、掛け値なしの厄ネタだ。しかも一つや二つでなく全国各地に点在している。人命や国土資源にもたらす被害は言うまでもなく甚大だ。ゆえに、全国各地を巡っては後ろ戸を閉める『閉じ師』、そして閉じ師の使命を帯びた草太の存在は重要極まりない。
だがちょっと待ってほしい。
こんな激ヤバ級のオブジェクト、誰がどう考えても国家レベルで対処するのが当然だろう。百歩譲ってそんなオカルト物体を国が信じないというのなら、全国各地に閉じ師たちのネットワークでも形成しておくべきだ。
いずれにせよ、後ろ戸の開放を未然に防ぐための盤石なシステム構築が欠かせない。まかり間違っても個人レベルで処理させるような案件でない事だけは確かだ。なのになあんで全部ひとりでやらないかんのかなあ草太君!!!!!?
当然、これは草太への不満ではない。草太ひとりに閉じ師のミッションを押しつけた先人たちへの怠慢、ひいては設定そのものへの不満だ。
しくじれば一地方の、下手すりゃ国家機能の崩壊にまでつながりかねないミッションを大学生の優男ひとりに託すだなんてどう考えても無茶すぎる。しかも草太は今年教員採用試験を控えた身だ。教採の受験自体も危ぶまれるが、よしんば念願の教師になったところで閉じ師のミッションはおそらく続けざるを得ないのだろう。
一つところに留まる教師と全国各地を巡る閉じ師。本業と副業の食い合わせが悪すぎる。あーもう草太の人生設計めちゃくちゃだよ。
せめて閉じ師の技法が一子相伝の秘術だとか、特定の血筋の者しか閉じ師になれないとかの設定があればまだわからなくもなかった。
しかし作中でそういう設定が伺える描写は特になく、それどころか過去には複数の閉じ師たちが存在していた事が明示されている。曰く、大正時代の関東大震災の時に活動していたとの事。だから何でそのネットワークを現代まで生かさんのかと。
近年多くの業界が後継者の不足に悩まされているが、この閉じ師に関しても例外でないのかもしれない。だが事は国土レベルの話だ。それこそ能や歌舞伎といった伝統芸能と同じく、いや、それよりも遥かに高いレベルで国が保護すべき職能だろう。古くから閉じ師が活動していた事実を示す文献が残されている事、時代を遡るほどに政府が祭祀祭礼を重んじていた事を考えると、日本政府が閉じ師の存在を知らない、あるいはスルーしているというのはどうも無理があるように思う。
(余談だが、作中で草太は閉じ師の職務に報酬が発生する旨を明言している。ミッションの影響が重大かつ広範囲である事から、報酬の発生源が個人や民間企業であるとは考えにくい。やはり何かしらの国家機関、それも地鎮祭等を執り仕切る宮内庁あたりが依頼主と考えるのが妥当だろう。その辺りからも、国が後ろ戸と閉じ師の存在を知らずに放置しているのはあり得ない。個人的にはそう思う)
詳細は伏せるが、作中後半に草太の祖父がすずめを叱責するシーンがある。この祖父も元閉じ師であり、自身のキャリアに基づいてすずめを非難する内容だ。
草太の祖父の説教を聞いたすずめは泣いていたが、おれはハラワタが煮えくり返っていた。それこそ手にしたドリンクの紙コップを握りつぶすくらいに激怒していた。
いやちょっと待て。すずめや草太の行動をどうこう言う前に、そもそもこいつら”だけ”で後ろ戸を閉めなきゃいかん事自体がおかしいのと違うか。祖父やその先人たちが後継者を残さなかったから二人だけでこんな無理ゲーやらないかんのやぞ。その辺を少しでも弁えていたらこうも高圧的にモノが言えるはずはない。じっちゃんは病院のベッドで苦しそうに喋っていて大変だが、おれも額の血管がブチ切れそうで大変だ。
いくらファンタジーの話とはいえ、欠いてはならないリアリティというものはある。現代日本を舞台にし、しかもそこに生きる人々の命をテーマにしているのなら尚更の事だ。
ボーイミーツガールものやセカイ系、つまり恋人同士(+その周辺の人間)のアクションだけで作品世界の命運が決する、そういう世界観は決して嫌いじゃない。だが現代日本というリアルそのものの世界観、そして震災と人命という極めてセンシティブなテーマを扱うに際し、そういう類いの文脈で話を進められる事には非常に抵抗を感じた。全国各地の震災を鎮める超重要職である閉じ師、それが草太しかいないという事は、すずめと草太の二人のラブストーリーを主軸に据えるためのご都合主義にしか思えなかった。
この点については残念という言葉では足りない。むしろ明確に憤りを覚えている。推定8億人の新海誠ファンを不快にさせる物言いで重々申し訳ないと思うが、この感想は枉げられない。
③ラストのすずめの語りが薄い
これを語る事自体がネタバレだが、はっきり書かないと説明のしようがないのでやむなく書く。
物語の最終盤、すずめは幼き日の自分自身と邂逅する。行方知れずの母を求めてひとり泣き暮れるかつての自分に、すずめは以下のように語りかける。
恐らく、本作を観賞した多くの人がこのセリフに感動を覚えた事だろう。「だろう」と偉そうに宣っているおれ自身、清新さと慈愛に満ちた非常に良いセリフだと感じている。
しかし本作を観賞した直後、おれはスマホのメモに以下のような走り書きを残した。
なんだこの全否定。さっきの評価はどこ行ったんだ、非常に良いセリフなんじゃなかったのかよ。
観賞後3ヶ月も経過しているため、その瞬間に抱いた感情はもはや朧気だ。正確に思い出すのは難しい。
それでもあえて言語化するなら、その時のおれはきっと、こういう思いに駆られていた。
自分で書いてて引くレベルの暴言だ。轟々たる非難を浴びる事はまちがいないし、異論も噴出するに違いない。
お前今まで何を観てきたんだ、あの震災ですずめは家も母親も喪ったんだぞ。お母さんを探し求めて泣き暮れる幼子の姿を見ておきながら「言うほど苦労してねえだろ」とは言語道断、ひとでなしにも程がある。おそらくそういう罵りとともに、おれは推定10億人の新海誠ファンから石を投げられる事だろう。
待ってくれ。どうか待ってくれ。
別に命乞いがしたいわけじゃない。おれはおれなりに思うところがあって先の発言に至ったのだ。石を投げながらでもいいから、どうか話を聞いてほしい。
思うに、人生への希望を謳う言葉は、己の力で人生の苦難を乗り越えんとする人間が放つからこそ光を宿す。
誰かを恃むものでも依るものでもなく、自分自身の意志の力で人生を切り拓こうとする姿勢。それこそが観る者の胸を打ち、そいつのハートに熱いガッツの火を灯す。
個人的に好例だと思うのは、『ライフ・イズ・ビューティフル』の主人公グイドが息子に語った”ゲーム”、あるいは『風と共に去りぬ』の第一部ラストでスカーレット・オハラが腹の底から叫んだ”神への誓い”だ。
グイドは親子ともどもユダヤ人収容所に送られたことで一切の人権を奪われ、四六時中処刑の恐怖に苛まれる。良家の箱入り娘だったスカーレットは南北戦争で一家の財産と食糧と家畜を奪われたうえ、たったひとりで残された一家を養わければならない。両者ともに正気を保っていられない状況だ。おれがグイドの立場だったら確実に恐慌をきたすし、あるいはその気力すら奪われ摩耗し尽くす。スカーレットの立場だったら心がへし折れられているに違いない。脳裏にいつも”逃亡”の二文字を浮かべては当てどなく彷徨う己の姿がありありと想像できる。
しかし、グイドとスカーレットはその状況下でなお希望を謳う。
グイドは幼い息子のジョズエに「これはいい子にし続けるゲームだ。1000ポイント溜まったら君の勝ち、その時には大砲のついた戦車をおうちに持って帰れるんだよ」と語る。過酷な収容所にあってもジョズエが健やかに生きられるよう、持ち前のユーモアを駆使して架空のゲームをでっち上げた。
スカーレットは飢えにまかせて泥まみれの大根に齧りついた後、己のみじめさを呪い地に伏して号泣する。しかし、よろめきながらも立ち上がると、拳を握りしめて天に叫んだ。
「神よ、私は誓います。この試練が終わるまで生き抜いてみせます。私も、私の家族も、二度と飢えません。必要とあらば嘘をつく事も、盗む事も、人殺しですら厭いません。神よ、私は二度と飢えません」
状況も倫理をも超越した生命力そのものの雄叫びが、昏れなずむ天地に谺する。グイドの”ゲーム”と同じく、心がひしゃげるほどの絶望の中で放たれたがゆえの名言だ。
運命の濁流に棹差す意地や決意。他者や状況に左右されない、一個の人間としての強靭さ。それを丹念に描いてこそ、鑑賞者の身中深くに眠る生き抜く力の火種は燃え上がる。
要するに、おれは何かしらの作品──とりわけ、ある種の人生論を説こうとする作品──を観賞するときには、そういう言葉や姿勢が描かれることを多かれ少なかれ期待しているのだ。
翻って、すずめである。
すずめは幼少期に震災で母を喪った。しかもその事を知らされない(あるいは信じられない)まま、震災の爪痕が生々しく残る荒野でひとり母を求めて彷徨い歩いている。その描写自体は言うまでもなく悲痛なものだ。
しかし、それから宮崎の叔母に引き取られて現在に至るまで、すずめは特に思い悩む事も塞ぎこむ事もなく過ごし続けている。日常では叔母と級友たちとともに健やかな生活を送り、戸締まりの旅路では行く先々で出会った人たちの厚意に支えられる。
新海誠監督が本作を通じて伝えたかったテーマや価値はいくつもあるだろうが、少なくとも『人の縁』『絆』『支えてくれる誰かの存在』といった価値は含まれているだろう。震災という災禍はもとより、疫病の蔓延その他諸々の要素により、人々が物理的に分断されて疲弊しきった現代社会。そうした世相への癒やし/回復/救済を新海誠監督は目指したに違いない。
だからこそ、すでに巷でも論じられているとおり、本作には”悪い人”が登場しない。悪人や悪意の描写が意図的に排除されている。最初から最後まで誰かとの出会いに満ちていて、しかも出会ったすべての人が根本的には善きもの/あたたかいものとして描かれている。
この価値観の描写を子ども騙しであるとか底が浅いなどと貶すつもりはない。むしろ、人と人とのつながり/縁/絆といった価値を伝えるという点では余す事なく成功していると思った(その意味では、章の冒頭に書いたすずめのセリフは「唐突」「薄っぺらい」どころか、ストーリーの流れを凝縮させたものだったと言える。人と人との出会いを繰り返してきたすずめ自身の、ひいては本作そのものの集大成とすら言える内容だ。観賞直後に抱いたものと大きく異なる感想に自分でも驚いているが、考えるほどにそう思わざるを得ない)。
しかし、畢竟それだけの話である。
物語の全編にわたって支え合い──と言うより『支えてくれる誰かの存在』の尊さを訴えるあまり、そこからはすずめという人格の力強さが見えてこない。絶望の淵に沈む者を支え引き上げる言葉を吐くだけの資質、つまり、己の力と意志で人生の苦境を乗り越えようとする姿勢。それをすずめが備えているとは、おれにはどうしても思えない。
一応断っておくと、すずめは客観的事実だけを見れば相当にタフな女だ。草太とともに体を張って命がけの戸締まりを遂行してきた事、一時期は草太抜きでひとり困難な旅路をくぐり抜けている事からもそれは明らかだと言える。
それらの描写を踏まえてもなお、『支えてくれる誰か』の価値を作中で始終強調されるがゆえに、すずめ個人としての強さが印象に残らない。ややもすると他者に依存する姿──生活では叔母に、旅路では土地土地の人に支えられているという点を差し置いても、草太なしでは生きていけないというパートナーへの依存性、生き方/在り方の根本的な脆弱さ──ばかりが印象に残る。
本作はすずめと草太のラブストーリーだ。ヒロインにパートナーへの愛を叫ぶなという方こそ無理がある。
だが、本作のねらいは単なるラブストーリーに留まるものではない。母を喪い絶望に泣き暮れるかつてのすずめ自身、ひいては(被災経験者を多く含む)本作の観賞者に何らかの支え/救いをもたらす事が目指されている。そのような高い目的を掲げていればこそ、『支えてくれる誰かがいる』という言葉では激励として足りないと思うのだ。
あの3.11以来、何の支えも救いもないまま彷徨うように生きている/生きざるを得ない人たちは大勢いるに違いない。被災者でなくとも同じような境遇/心境の人も多いだろう。今まさに孤立無援の状態に直面している人に対し、既に支えを得た人間が『支えてくれる誰かがいる』との言葉を掛けたところで、掛けられた側からすれば寒々しい絵空事としか受け取れない。綺麗事を吐かすなと激昂される事すらあり得るはずだ。
他者との連帯や協調、愛情をくだらないものと見下げているわけではない。むしろ本作が目指したとおり、今この時世だからこそ高らかに謳うべき価値である事は疑いない。しかし、その一事のみを訴えるのでは片手落ちだ。
グイドとスカーレットが示したような独立独歩の姿勢。
理不尽や絶望に直面しながら「それでも、なお」と言い切る姿勢。
支えてくれる誰かがいようといまいと関係なく、自分自身の意志の力で人生を拓こうとする姿勢。
つまり、自立した個人としての生き様を同時に示す必要がある。それを欠いたまま『支え合い』を描こうとしても、見る者の目には『依存』としか映らないことだろう。
本作に即して言えば、すずめが草太の祖父に対して「草太を取り戻したい」と叫ぶシーンの描き方をもっと考えて欲しかった。自分の命と引き換えにしてでも草太を救いたい。その言葉は真実に違いないにせよ、取り乱した姿のままそれを叫ぶのではかえって、そしてあまりにも弱々しい。それだけでは駄々をこねる幼子と変わらない。
草太を五体満足のままで奪還するミッションが、ほとんど達成不可能と言えるほどに困難なものである事。その事実を真正面から見据え、受け止め、飲み下した上で、「それでも私は救いたい」そう決然と言い切って欲しかった。すずめの言葉がヒステリックな感情に衝き動かされてのものではなく、深い決意に支えられてのものである事を示して欲しかった。
状況に負けない意志の力を示す描写があってこそ、またそういう描写を積み重ねてこそ、すずめが一方的に支えられるだけの未成熟な存在でなく、誰かを支え救う力を持つ存在である事が直観的に理解できる。そのようなアプローチですずめの心情を丁寧に描写してくれれば、おれは冒頭で言い放った「苦労知らず」などという感想をすずめに抱く事は無かっただろう。それどころか、草太も過去の自分も十全に救うだけの力を、そして鑑賞者のガッツを呼び醒ます力を持つヒロインとして、すずめを認める事ができたに違いない。
おわりに(『すずめの戸締まり』が本当にSLAM DUNKだった件について)
最後に、肝心要の点について話す。
本作を観賞中、おれはずっとある疑念を抱いていた。
言うまでもなく、本作のどこら辺が『SLAM DUNK』なのかについてである。
これまで観ている限り、本作はどう見てもラブストーリー×ロードムービーな作品だ。バスケットボールも出てこなければ体育館も出てこない。
ましてや、あのときのときさんが言っていた『君が好きだと叫びたい』の歌詞に当てはまるようなシーンが映される気配は一向に漂ってこない。ラブストーリーに合う歌詞ではあるが、まさかそれだけの理由で言及されたわけでもあるまい。一体何がSLAM DUNKだと言うのだろうか。
半信半疑を通り越した三信七疑くらいの心境で、おれは腕組みしながら映画館のスクリーンを眺め続けていた。
最初の異変は、物語の中盤終了間際に起こった。
草太が凍りはじめている。
比喩ではない。ピシパシと音を立て、足元から物理的に氷漬けにされていく。そして凍結が完了すると、氷漬けの草太はそのまま災厄を鎮める『要石』として災厄の根源にブッ刺された。
何がどうしてこうなった。細かい理屈は何もわからない。だがこれだけはわかる。
おそらく終盤あたりで、草太はすずめの愛によって解凍される。何てこった、ホントにときさんの言ってたとおりの展開じゃないか。済まないときさん、これまで何度も眉にツバつけながら観賞していたおれをどうか許してくれ。
しかし、本番はそこからだった。
物語の最終盤、やはり草太はすずめの一途な愛によって凍結状態から解き放たれた。気持ちの良いまでに歌詞のとおりだ。
だが再会を喜ぶ余裕はない。今まさに災厄、それも壊滅的被害をもたらすであろう激甚災害の根源が後ろ戸から這い出ようとしている。
すずめと草太はすでに後ろ戸の中に入りこんでいる。この災厄を鎮めるには、災厄の根源に直接『要石』を打ち込むしか方法は無い。しかも今回出現した根源はこれまでと違って単体ではない。二体だ。それぞれに要石をぶち込む必要がある。
果たして、草太とすずめは各々の手に『要石』を携えて災厄の根源に雄々しく挑んだ。
空高く舞い上がった体を弓なりに反らしてあらん限りの力を込める。草太を凍てつかせる残酷な運命すらも打ち砕かんばかりの勢いで、両手に抱えた要石を災厄の根源に叩きこむ。
そのアクションを何と呼ぶべきか。おれはその名を知っている。
バスケットボールも体育館もこの物語には出てこない。だが、両手に抱えた何かを叩き壊さんばかりに打ちつけるその動作は紛れもなく。そう、紛れもなく!!!!!
(SLAM DUNK!!!!!!!!!!)
息を呑んでクライマックスを見守る観客たちの中、おれは拳を握りしめながら心中でその名を叫んでいた。要石のダンクを叩き込むすずめの姿は、陵南戦ラストでダンクシュートを叩き込んだ桜木花道にも劣らないほどの勇姿に思えた。
気づけば、おれの目には熱い涙がうっすらと浮かびはじめていた。
感動と興奮冷めやらぬまま、物語は大団円へと向かっていく。
泣き暮れる過去の自分に未来への希望を説くと、すずめは草太とともに向かっていった。後ろ戸の先、現世へと。
「おねえちゃんは、だれ?」
幼き自身の問いにすずめは振り向き、笑顔を浮かべる。
そして、これ以上ないほどのやさしさと、あたらしさを湛えた声で答えた。
「私は、すずめの明日」
得体の知れぬ感動がおれの背骨を貫いた。
何てこった。本当に何てこった。「明日を変えてみよう」の歌詞そのままじゃないか。
余す事なく歌詞のとおりだった。徹頭徹尾SLAM DUNKだった。あのときのときさんが言っていた事は、一分たりとも瑕のない真実そのものだったのだ。
エンドロールに鳴り響くRADWIMPSに包まれて、観客たちが泣いている。おれも一緒に泣いている。
もっとも、涙の理由はおれ一人だけのオンリーワンだ。おれの嫌いな新海誠の作品が、おれの大好きなSLAM DUNKだったのだ。こんなに嬉しい事があるだろうか。
ありがとう、すずめの戸締まり。
ありがとう、SLAM DUNK。
そしてありがとう、あのときのときさん。
滂沱の涙を流しながら、おれは他の観客に混じり、精いっぱいの拍手をスクリーンに向かって捧げていた。
途中散々くさしてもきたが、こうして書いてみると良い映画だったように思う。
これまでずっと毛嫌いしていた新海誠監督だが、こういう発見があるのならば他の作品を観るのもアリなのではなかろうか。『君の名は。』も『天気の子』も、いざ観賞してみたらそれなりに、いやそれなり以上に楽しめるかもしれない。
もっとも、新海誠監督とファンの方々からすれば、こんなズレた楽しみ方をするやつはnot for meどころかNo thank youかもしれないが。