エモクラテスの弁明。
俺
「我思う、エモとは何ぞや」
津田沼
「まずソクラテスと岩波文庫に謝るべきだな」
― ― ―
きっかけは、悪友津田沼からのラインメールだった。
「すごくどうでもいい話なんだけど、さっき観てたサカナクションのWEBライブで”モス”って曲が流れてさ」
「その歌詞の中にさ、
”繭割って蛾になるマイノリティ”
ってフレーズがあって、なんかよくわからないけどすごく納得したんだよね」
「そりゃそうだよな、繭割って蝶にならない人だっているよなって。いや、本当にただそれだけなんだけど」
本当にどうでもいい話だったので、アタマを使うことなく脊髄で返した。
「別にいいだろ無事に成虫になれたんだから。っつーか、蛾でもイナゴでもなんでもいいけど、最終的にはみんな蝶になるんだよ。ホレ昔の歌にだってあるだろ、『あなたに抱かれてわたしは蝶になる』って」
「うん、森山加代子の歌は置いとくとしてね?言いたいことはそうじゃないんだよ」
ご丁寧に元ネタを拾いつつ、津田沼が続ける。
「思ったんだよね。さなぎのときに繭のなかでドロドロに溶けて、イチから作り直した結果が蛾かよって。なんとなく、それが俺には響いてさ。竹井君(※俺)もそう思わない?」
「思わねえ。まったく。微塵も」
言下に否定する。
「だいたいな。蛾だって普通にカッコいいヤツもいれば、蝶でも犬のフンにタカるようなヤツだっているんだから、一概に蛾が悪いって考え方はどうかと思うぞ」
「うーん、理屈はわかるよ。蛾だって絹糸を出す蚕(かいこ)みたいに有益なヤツもいれば、妖艶な魅力があるのだっているし。でもなあ、感情はやっぱり別だよ。なんと言おうが蛾は蛾だしなあ、蛾」
よほど蛾になるのが嫌なのか、津田沼は”蛾”という一文字をくり返す。
というか、自分が将来蛾に成り果てることを心配しすぎだ。
そもそも俺たちは人間だし、しかも成人しきったオッサンだぞ。
自分のことをポケモンのコクーンとでも思い込んでるのかお前は。
かくも蛾を忌避せんとする津田沼の態度に、俺は段々ハラが立ってきた。
もちろん、勝手にどうでもいい話を繰り広げて勝手にウダウダ悩む、津田沼の面倒くささに対しても怒っている。
だがそれ以上にムカついたのは、蛾が悪しきものだという、その認識だ。
繭を割って出てきたのが蛾で、何がいけねえんだ。
さなぎの中身が蝶でなく蛾だったら、ハズレだとでも言いてえのか。
キレイなものしかこの世にあってはならないとでも言いてえのか。
傲慢だ。
傲慢の極みだ。
この怒りは、アレだ。
今日びはやりの「エモい」という言葉に、俺が感じているそれだ。
「何がエモだよエモくなかったらダメだって誰が決めたんだよ!!!!!」
「いや蛾の話だよなんでエモの話に飛んだの!!!?」
どえらい地点に論理がワープしたことで、俺たちのエモ問答は幕を開けた。
― ― ―
「えーと、それで?何がどうなって蛾の話からエモさの話になったの、竹井君のアタマん中で」
「さっきお前が引用した歌詞あったろ、”繭割って蛾になるマイノリティ”ってやつ。アレさ、いかにも
『さなぎの中身はキレイな蝶でなく不気味な蛾でした、よってハズレです』
って言ってる風にしか聞こえねえんだけど」
「んーまあ是非はともかくとして、少なくともマジョリティになれなかった/ならなかった人たちの比喩なのは間違いないよね」
「”是非はともかく”?本当にそうか?不気味な蛾なんておよびでないって価値観が相当含まれてると感じたぞ、俺は」
「まあ、あえて否定する気もないけどさ。でも実際そうでしょ?誰だって不気味なものよりはキレイなものの方が好きじゃない。竹井君だってそこは同じでしょ」
「いやそりゃあ俺だってキレイなもんは好きだし、誰だって好きに決まってる。でもな、それが唯一絶対の正義みたいな顔してまかり通ってるのが気に入らねえワケよ。それ以外の価値観を訴えたところでスルーされるように感じるんだわ。
『ドブネズミみたいに美しくなりたい』
って甲本ヒロトの名言を知らねえのかよと言いたいわ」
「あー、ドブネズミってブルーハーツの歌詞だっけ。そういう泥臭いのが最近の流行りじゃないってのは、確かにそうかもね。それで?そこからなんでエモさの話につながっていくのさ」
「なんでも何もそれこそが答えだ。”エモい”とか”エモさを感じる”って表現の根本には、キレイなものしか認めない/キレイでないものを排斥する思想があると俺は思っている」
「いきなりキナ臭いこと言い出すね君は。それじゃまるでファシズムじゃないの。独裁主義」
「”みたい”じゃなくて実際そう感じているんだよ。なんならそのファシズムって言葉を借りて、オシャレファシズムだと言い換えてもいいくらいだ。このエモ全盛の風潮は」
「言い切ったね」
「言い切るに決まってる。体でそう感じてるんだからな」
「うーん、言いたいことはなんとなくわかったけど、ちょっと切り口を変えようか。そもそも”エモい”とは何なのかってところにまだ触れてないし、そのあたりからも話してみたいね」
― ― ―
「で、”エモい”っていったい何なんだろうね。竹井君」
「定義しきるのは無理だな」
「え゛、いきなりそこ放り投げるの!?」
「いや無理なモンは無理だろ。なんならこの言葉、今後”ヤバい”と同じくらいの位置につける巨大なバズワードだと思ってるわ。めちゃくちゃにバズったって意味でも、本来の使い方どおり曖昧すぎるって意味でも。
だからこそ、そんな言葉が唯一無二の正解みたいなツラでまかり通ってるのが気にくわねえんだけど」
「ええ~、話振った君がそれ言うのかよ・・・」
「じゃあお前はどうなんだ津田沼。この切り口を提案したのはお前なんだし、ここはひとつプラトン津田沼の考えを聞こうじゃないか」
「ソクラテス気取りがまだ続いてたことにビックリだよ。というか、俺だって完璧に定義しきるのなんて無理だよ。思いつくこと適当に言ってく位しかできないと思うけど、それでもいいの」
「構わん。その結果として断片的にでも分析できれば儲けもんだろ」
「うーん、じゃあそうだな。さっき竹井君が言ってた”キレイ”とか”オシャレ”ってニュアンスが含まれてるっていうのは、まあそうだろうなって思うよ」
「その辺はだいたい世間の共通認識なんだろうな。他には何かあるか」
「元々は、感動的だとか感情を揺さぶるくらい良いモノを指して使ってた言葉なんだろうね。特に、感傷的な事柄に対して使われることが多いと感じるかな。そもそも日本人って、昔っから感傷的になること自体が好きなんだろうなって思うんだよ。ほら、古典の授業でも出てきたじゃん。”もののあはれ”って言葉が」
「あー、もののあはれか、確かにあったな。じゃあ何か、平安貴族どもは千年前から『超エモ~い』って連呼してたってワケか」
「マジメな話そうなんじゃない?言語化しづらい諸々の情緒たちをひっくるめて、”あはれ”だとか”をかし”だとか使ってたってことだと思うよ。それってまさに現代の”エモい”じゃん。まあ、この辺は俺があえて語らずとも、とっくにいろんな人たちが語ってると思うんだけどね」
「俺はその辺の議論を知らなかったから、聞いてて新鮮に思うけどな」
「ただ、その言葉が普及するにつれて、意味合いがチープになっていった感じがするのは否めないよね。感動を意味する言葉のはずなのに、ありがたみが薄れていったというかさ。普及するほどに意味合いが安っぽくなるのは言葉の宿命だけど、感動をあらわす言葉がそうなってしまったっていうのは、なんというか、こう、モヤっとするよね」
「意味合いがチープだっていうのは確かに俺も感じるところだな。”エモ”という言葉にムカついてる理由の一端はそこにもあると思う」
「で、ここからは俺の持論なんだけどさ。キレイさを見出したり感動する瞬間ってのは、そもそも普遍的なものじゃないということに着目すべきだと思うんだよね」
「ほう?」
「例えば俺の場合、『あなたにとっての”夏のエモさ”とは何ですか?』って聞かれたらこう即答するよ。『ガガガSPの”線香花火”という曲です』って」
「・・・いや、悪いけど全然共感できねえ。青春パンクの有名な曲だっけ?知ってることは知ってるけど、俺は別に好きってわけじゃねえし、その曲」
「うん、そういう反応が返ってきても仕方ないなとは思うよ。でも俺にとってはこれがエモなんだよ。誰がなんと言おうと」
「あー、ちょっと待て津田沼。それってアレじゃねえか、いわゆる”思い出補正”のコトじゃねえか。ガガガSP、というか青春パンク自体、たしか俺らが高校くらいのときに流行った音楽ジャンルだったよな」
「そうだね、まさに俺個人の思い出補正だね。コレは」
「だったら、それを”エモい”って言い切るのはなあ・・・」
「だから、その認識がそもそもおかしいと思うんだよ」
「は?」
「俺にとっての”エモい”をあえて定義するなら、それは”自分がグッときたもの”だよ。それが具体的に何なのかって突き詰めたら、だいたい昔の思い出にさかのぼるだけなんだよね。
だから俺の中では”エモい≒思い出補正”になるわけだけど、それの何が問題なの?何に感動するかなんて、所詮その人の勝手じゃない」
「お、おう。珍しく強気だな」
「さらに言うと、君がさっき例に上げた『ドブネズミみたいに美しく』だって、そもそもは甲本ヒロトの個人的な感性でしょ。ドブネズミを美しいと言い切ることの何が悪いってのと同じ話だと思うよ、これは」
「・・・なるほどねえ・・・・・・」
「ところで竹井君、定義しきるのは無理だって言ってたけど、それでもあえて言うならどういう感じなの。君にとっての”エモい”って」
「う~ん、オサレで甘酸っぱい感じのコンテンツとかシーンを楽しむ感情を指す言葉かな。アーティストで言うなら”トルネード竜巻”の楽曲なんかはだいたいそうだと思うわ」
「それは”世間が言うところの”エモさでしょ。俺が聞いてるのは”君にとっての”エモさだよ」
「・・・いや、そもそもの話、俺は自分の感情を乗せたい言葉として”エモい”って言葉を使ったことは一度もない」
「へえ?」
「感動にせよ感傷にせよ、自分の感情を託すには、この言葉は軽すぎる。定義付けから逃げるとかじゃなくて、”エモい”ってチープな言葉で、簡単に割り切れない自分の感情を定義したくないんだよ」
「あー、何となくわかるようなわかんないような・・・要するにこういうことかな。
”エモい”って言葉は自分の感情の分析を放棄しているようなもんだって言いたいのかね、竹井君は」
「あーそうだそんな感じだ。そんなカンタンな言葉で無理やり自分の感情を定義づけちまっていいのかねって思うんだよ。割り切れないモノに向き合ってこそ、本当に大事なモノが得られると常々思っているだけにさ」
「なるほどねえ。しゃべってる内に何となくわかってきたよ、竹井君のイライラの原因が」
「え、わかったのか?」
「うん。まあ口に出したところで、これまで言ってきたことの言い替えに過ぎないんだけどさ。実感として理解できた気はするね」
「ほーん・・・んじゃあラストはその辺に戻って話してみるか。”エモい”って言葉がなぜ俺のカンに障るのかって話に」
― ― ―
「結論から言うとさ、竹井君。エモいって言葉に押しつけがましさを感じてるんだよ、君は」
「( ゚д゚)」
「いやなんか言いなよ」
「( ゚д゚ )」
「こっち見んな」
「あー・・・いや、目からウロコが落ちたっつーか、言われてみればその通りだなって。そうだよ押しつけがましさだ。排斥とかファシズムとか回りくどいコト言ってきたけど、要するにそういうコトなんだよ。俺が言いたいのはさ」
「うん。さらに言い換えるとこんな感じかね。
『俺/私にとって美しいモノは、誰にとっても美しいはずだから、あなたもそれを見られて/感じられてうれしいに決まってるよね?』」
「あーそうそうそんなニュアンスだよ!いやちょっと待て、スッキリする以上に怒りの正体が見えてハラが立ってきた」
「あ、そう?じゃあトドメにもう一回言い換えようか」
「いやだからちょっとまt」
「『エモいね!』ってのは、つまり
『俺が感動してんだからお前も感動しろよ!』
ってコトなんだね。竹井君の中では」
「あああああ正にその通りだよ!!!何なんだよその腹立つことこの上ない目線は!!!!!」
「別に俺がそういう考えを持ってるワケじゃないよ。竹井君のムカつきを言語化するとしたらこんな感じだろうなと思ってしゃべってるだけだから。
あと、あんまりヒートアップすると切れるよ。血管が」
「じゃあなんで二回も言い替えたんだよ!?しかも止めたのに!!!」
「君が”エモい”の定義を人に丸投げしたからでしょ。答えを求めてそれ聞いて勝手にヒートアップしたのは全部君の勝手だよね。知性も責任感もカルシウムも足りてないな、ニボシと牛乳どっちがいい?」
「AAAAAARGH!!!!!!」
― ― ―
「あー、とんだ所でフルーチェ用の牛乳飲み干してしまったぜ」
「三十過ぎてフルーチェ作る男なんて君だけだよ。まあ、落ちついたんなら何よりだけど」
「しかしアレだなプラトン、いやソクラテス津田沼先生。もう一つだけわからねえことがあるんだけど」
「ついにソクラテスの称号すら明け渡したか。何?」
「その、俺をムカつかせるエモの押しつけがましさは、一体どこからやって来てるんだろうな。個人的には、インフルエンサーとかいうどっかの誰かが意図的に流行らせたんだろうと思ってるんだけど」
「う~ん。さっきも言ったとおり、もとを正せば日本人古来の感性だからね。広く万人に受け入れられるのは当然というか、しかたない部分はあると思うよ」
「それにしたって”押しつけがましさ”にまでは発展しないだろう、普通。インフルエンサーがどうのという陰謀論を抜きにしても、なにがしかの要因があるんじゃないのか」
「・・・これも日本人特有なのかもしれないけど、一つ思い当たる節はあるね」
「ほう」
「ズバリ、同調圧力。価値観の均一化というか、他人に価値を認めてもらわないと満足できない人が多いということは、けっこうな要因なんじゃないかな」
「あー同調圧力か。なるほどなあー」
「あくまで俺個人の考えだけどね」
「いい大人が何を気にしてんだよくだらねーなあ!!!!!」
「まあ、そうだろうね。竹井君ならそう言うだろうと思ってたよ。蛾の何が悪いって言い切る人間だし」
「いや言いたいわ。そいつの感動も、そいつの痛みも、そいつだけの財産だろ。なんでその評価を他人に委ねるんだよ。
自分の感情(エモ)の価値くらい、いちいち他人に聞かないで自分で好きに決めりゃあいい」
「ま、その辺は俺も同意だけどね。
ところで竹井君、ちょっと話がそれるんだけどいいかな。だいぶ唐突な、しかも抽象的な話かもしれないけど」
「ん、どうした」
「思うに、感動の味わい方にも二種類あるんじゃないかな」
「・・・いや、本当に唐突でわかんねえ。続けてくれ」
「ひとつは”共感”。文字通り、誰かと共に分かち合いたい感動や感傷。世間でいう”エモさ”の類義語はコレだろうね。
それに対してもうひとつは、自分ひとりの境地で噛みしめる感動や感傷。コレについてはふさわしいことばが見当たらないけど、強いて近いニュアンスのことばを挙げるならコレじゃないかな。”孤高”」
「こ、孤高ときたか。うーん、共感はわかるけど孤高ねえ、孤高・・・」
「ギリギリの局面を乗り越えてきた人間にしかわからないエモーションがあるってことだよ。極端な話をすると、野球のイチローや将棋の羽生さんの感動や挫折なんて、普通の人には絶対わかり得ないでしょ。
プロアスリートみたいな特例に限らず、人生のどこかでそういう切羽詰まった経験をしてきた人って、けっこういると思うんだよ。だって、みんな生きてきたんだから」
「・・・・・・」
「竹井君が大事だと思っている感動は、そういうギリギリのシーンで見出した方のそれなんだろうね。
さっきの二分化で言えば、”共感”でなく”孤高”のほうに価値観のほとんどを全振りしていると言ってもいいかな。だからこそ、さっきの言葉が出てきたんだよ。
『”エモい”ってチープなフレーズに自分の感情を託したくない』
って言葉が」
「・・・そうだな。間違いなくそうだ」
「そして、あわよくばその価値観を、周りにも理解してもらいたい。今回の議題も、つまるところはそういう話だよね」
「・・・それも、その通りだ。
津田沼の言うところの”共感”一辺倒になってる最近の風潮は、”勝ちも負けも、最後は自分ひとりで噛みしめるもの”という俺の価値観に合わないんだよ。それを押しつけられるのが我慢ならなかったから、エモって言葉がキライになったんだ」
「でもね、やっぱりその価値観は容易には理解されないよ。
だってわかりにくいから。とっつきやすくないから。どれだけ味わい深くても、結局はその人固有の世界観だから。そういう性質のモノを指して、”孤高”って呼ぶんだから。
孤高の価値観を広く理解してもらうのって、水に燃えろって言うのと同じくらい難しいというか、そもそもが相容れない話なんじゃないかな」
「じゃあ、何か。俺がいくら俺自身の価値観や感動を世間に訴えても、無意味だってことかよ」
「いや、そうは言ってない」
「だったら、どういうことだ」
「だから、そこは竹井君の言うとおりなんだよ。感情(エモ)の価値なんて自分で勝手に決めて、勝手に叫ぶのが本来の在り方なんだよ。
誰に共感されようとされまいと、自分が感銘を受けた時点でそれは自分にとって価値あるものなんだよ。そこがすでにゴールなの。
それを共感の有無や声の大きさで競って、個人の感動や感性に優劣をつけようって視点がそもそもおかしいんだよ。
君が世間のエモなんて求めてないように、世間も君のエモを求めていない。
それを自覚すること、誰かが自分の感性を評価してくれるという期待とか依存を断ち切ることが、まっとうに”エモさ”を楽しむスタートラインなんじゃないかな」
― ― ―
「目が覚めましたソクラテス津田沼先生!!!!!」
「うん、まさか蛾の話をした結果ソクラテスになるだなんて思ってもいなかったよ。エモに対する竹井君のモヤモヤが整理されたんなら何よりだけどね」
「いやー今回の話でだいぶ整理された気がするわ。やっぱ昔っから頭だけは良いな津田沼は」
「そして君はいつも一言多いね。まあ、俺も今回の話を通じて色々思うところはあったよ。俺自身はエモいって言葉は嫌いじゃないけど、何事も用法用量を守らないとね」
「そーそー、どこの製薬会社も言ってるだろ。用法用量を守ってたのしくお使いくださいって」
「正しくね。まあでも、今回に限ってはそっちでも合ってるのかもね。感情を楽しむのがエモってことだからさ」
「ウマいこと言ったつもりか。まあいいや、それじゃあおあとがよろしいようd」
「あ、ちょっと待った竹井君」
「ん、まだ何かあんのか」
「結局、竹井君にとっての”エモい”って何なの?とりあえず曲で例えてみてよ」
「え、いやもういいだろ。完全にシメの流れだったろ今の」
「いやーせっかくだしね。俺がガガガSPの”線香花火”を引き合いに出したように、君にも”夏のエモさ”をなんかの曲に例えさせてみたらおもしろい答えが返ってくるかなって」
「・・・”夏限定の”エモさか?」
「そう、夏限定。ほら何か一つはあるでしょ、俺たちが十代の頃に流れてたメッチャエモい曲が」
「・・・・・・あった。一つあったわ。
夏限定も俺たちが十代の頃っていうのも、条件全部クリアした激エモソングが」
「おっ、どんな曲」