或いは、あなたの幼年さえも
「たーだいまぁっ!」
家のドアを開ける音と陽気なテノール。
空気にまじるお酒の匂い。
「あ、福永せんせ!お帰りなさい」
夜9時、ご友人とお酒を飲みに行っていた福永せんせが帰ってきた。
ほんのり赤い、ふにゃふにゃな笑顔が、ただただ愛らしい。
いかにも楽しそうな彼から鞄とコートを受け取り、それぞれ片付けながらお話を聞く。
「ニコニコですねぇ、楽しかったですか?」
「うん!久々に石川さんと会えたりして、すごーくね!」
石川さん…あぁ、福永せんせの年上のご友人さんか。
「アニキ」って感じの見た目に、竹を割ったような性格の。
「あら、よかったですね!確かここ最近は忙しいとかで、話せてもお電話なんでしたっけ」
「そうそう!久しぶりに会えて嬉しくてね、たくさん話して、でも石川さん全部聞いてくれて、ほんっと嬉しかったなぁ。あとね、中村とも久々に今のお互いのことについて語りあったんだぁ。彼も同居人とは仲良くやってるみたいでね、この間なんか……」
ソファにぽすんと座り、ウキウキ楽しく話す福永せんせ。
まるで学校から帰って、母親に今日あったことを話す子どものような、楽しげで愛らしい姿と声。
ねぇねぇ聞いて、と言わんばかりの勢い。
つい彼の幼年の話をふと考えてしまう。
彼は、こうした機会には、恵まれなかったということも。
他の誰もが当たり前に過ごした「母親との時間」が、彼にはほとんどないということも。
だからこそ、微かに残る思い出を、今も大切にしていることを。
そして、はたと思い至る。
彼の酔った姿は、ひょっとしたら……
何だか、そんなことを考え出したら、我慢できなくって。
「それでね……って、わあっ!どしたの?」
気付いたら、体が先に動いて、彼を後ろからきゅっと抱きしめていた。
「……や、その…福永せんせ、楽しそうでよかったって思ってたら、ついですね……」
「……もう、愛らしいなぁ」
そう言うと、絡めた腕に手のひらが重なる。
と、そのまま振り向かれ、唇が重なる。
お酒の味の、柔らかいキス。
私までふんわり酔いが回るような、夢のように甘い1秒。
「……ほら、ぎゅーってしてあげるから、おいで?」
そう言って、至近距離でにぱっと笑う福永せんせ。
その笑顔には、福永せんせと、彼の中にいる「武彦くん」の姿も滲んで混じりあってるように見えて。
「えへへ…じゃあ、お言葉に甘えて」
彼の隣にそうっと入り込むと、甘いお酒の香りの体にぎゅっと包みこまれる。
「まだまだ話したいこと、あるからね。全部聞かせてあげるから寝ないでおくれよ?」
「お任せ下さい!ぜーんぶ、聴きますからね。ここで」
福永せんせにも、彼の胸の奥にいる幼い「武彦くん」にも答えるように優しく言葉を返せば、彼が満足げににっこり頷くのが見えた。
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