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山の画商

「山下清、知らないの」
初老の画商が、驚きとも残念とも取れる声を上げた。
「すみません」
ぼくは心底済まない気持ちで言った。
「テレビドラマもやってたんだけどなぁ」
「不勉強なもので」
「じゃあこの人知ってる?千住博」
画商はまた別の絵を見せてくれた。
「この人、絶対来ると思うんだよ。知ってる?」
「いえ、すみません」
ぼくは美術の学校を卒業している。
そこで美術史やデザイン史は一通り学んできていた。だが、画家の名前、それも日本の画家となると、ほとんど知らない。
つくづく、勉強不足を悔いた。
「じゃあ、草間彌生知ってる?この辺の人なんだよ、あの人」
「そうなんですか」
初めて知っている名前が出てきた。
「そうなんだよ、病院に入院しては出てきての繰り返しでさ」
それは知らなかった。相槌を打つ他ない。
万事この調子で、絵画や美術の話で画商について行くことはできなかった。
画商はぼくを試していた。もちろん、仕事で付き合う相手のことだから、知識量を知りたいと思うのは当然だろう。
ぼくの方も、もっと知っている作家について聞いてくれることを期待して、密かに待っていた。
ロートレックのことを聞いてくれないか。カッサンドル、サヴィニャックのことを聞いてくれないか。
ジョルジュ・ブラックは、ピカソは、ダリは……
しかし画商の口から、ついにそれらの名前が出ることはなかった。
諸々の打ち合わせが終わると、画商は「車持ってきてもらうから、ちょっと待ってて」と言い、自分は外に出て行った。
しばらく待っていたが、戻ってこない。ぼくも後を追って事務所を出た。
一面に雪景色が広がる。
寒い。ちょうど冬至の頃だ。夕方4時を過ぎたばかりだというのに、空が鉛色を帯び始めていた。
画商は、雪山を眺めながら煙草を吸っていた。
「吸う?」
「いえ、吸わないんです」
「今の人は吸わないね」
雪景色の中、画商は白い煙を吐きながら言った。
「今年の冬はあったかいね。もっとビシッと寒くならないと、身体がふやけて具合が悪くなるね」
「はあ」
あったかいだろうか。
ここは真冬の山中である。寒さが苦手なぼくには、画商の言っていることが全く理解できない。
しばらくすると、砂利の上をタイヤが転がる音がして、止まった。
「来たね。送るよ」
「ありがとうございます」
車を持ってきたのは画商の奥さんのようだったが、ぼくと画商が行く前に家の中に入ってしまった。
画商は車に乗り込んでキーを回し、少し遅れて来たぼくが助手席に乗るのを待ってから、車を走らせ始めた。
画商のオフィスは、山道の途中にある。決して駅まで近い場所とは言えない。
道中、何か話したはずだが、何も覚えていない。
駅まで着くと、辺りはすっかり暗くなっている。
画商は当たり前のように居酒屋に連れて行ってくれた。
こういう場合のマナーがわからない。ぼくはとりあえず、蕎麦を注文したが、画商は、ノンアルコールビールとつまみを頼んでいた。
お互いに淡々と飲み食いする。
共通の話題が、あるようで無い。
せっかくご馳走になっているのに、蕎麦は何も味がしなかった。
半日一緒に過ごした相手との間に、ついに共通点を何ひとつ見つけられないまま、今日が終わる。
「ありがとうございました」
盛り上がりに欠けたまま、駅前で挨拶をして別れた。
一人になり、駅のホームで電車を待つ間も、胸に鬱屈した何かがつかえている。
力を出し切れなかった。期待に答えられなかった。最後まで噛み合わずに、軌道修正できなかった。
その不甲斐なさが情けない。
まばらだが、ホームには人がいる。
いてくれてよかった。
誰もいなかったら、ぼくは一人で大声を発しながら、そこらじゅうを走り回っていたかもしれない。

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