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飯田市というところ

長野県南部に、飯田市という場所がある。
静岡県との県境に位置し、人口は推計10万人前後。
ウィキペディアには、経済的には愛知県各都市との結びつきが強い、とある。
ようするに、関東甲信越の枠組からは外れた場所なのである。
東京駅からの交通の便として鉄路を使おうとすると、なんと最短で4時間かかる。
自宅から東京駅までの時間を考えると、ドア・ツー・ドアで5時間強かかる計算だ。
こんな場所に日帰りで行くのは狂気の沙汰だが、仕事の都合上、それを強行しなければならないケースもある。
その場合、鉄道ではなく、新宿発の高速バスを利用した方が、まだ「まし」だ。
こちらも新宿から飯田駅前まで4時間かかるのだが、乗り換えがない分時間が読みやすいし、車内で多少、睡眠が取れる。
もっとも、座席は路線バスに毛が生えた程度で、居住性は決して良くはない。
どちらにせよ、どこかで我慢を強いられるのが、日帰りで行く東京・飯田間の旅なのだ。
そういうわけで、ぼくは飯田へ向かうバス車内で温かいペットボトルのお茶をちびりちびりと飲んでいる。
恥ずかしながら、子供の頃からの体質として、お腹が弱い。
途中トイレ休憩があるとはいえ、4時間、バスの座席に釘付けになるわけだから、水分補給は必要最低限に抑え、かつ、お腹を冷やさないよう細心の注意を払う必要があった。
季節は冬である。
窓につけた額を結露が容赦無く濡らしていく。
これではたまらないと、ポケットにあった喫茶店の紙ナプキンで窓の水滴を拭き取ってみた。しかし、あっという間に水浸しになり破れてしまい、一方で新しい結露が透明になったガラスを曇らせていく。
ぼくは諦めて、靴を脱いだ。
眠る体勢を作るためである。
足を乗せるためのボードがあるので、それを引っ張り出して踏み締める。この辺も、鉄道だと特急などでない限りあまりお目にかかれない装備である。
スーツのボタンを外し、シャツの首元を開き、ベルトを緩め、ポケットの財布やPHSを鞄の中へ移す。
その鞄をふくらはぎの後ろに置いて、準備完了だ。
飯田は終点だから、最後まで乗っていれば良い。
あとは頭の位置である。
ぼくは安定しない車内で、なんとか眠ろうと眉間にしわを寄せた。
バスの揺れ方は列車と違って眠りにくい。なんとか眠れたとして、寝覚めは最悪だろう。こればかりは仕方がない。
飯田に着いたら顧客と打ち合わせして、今度は飯田発新宿行きのバスに乗って帰路に着く。
移動だけで往復8時間以上である。
ちなみに、飯田市には名産品として五平餅や和菓子があるらしいが、ぼくは何ひとつ知らなかった。
ぼくにとって飯田といえば、行くのに4時間かかり、タイムリミットが夕方5時までの町なのである。終バスが5時に出てしまうので、それに合わせて、全ての予定を組まなければならないのだ。
何度も行ったのに、名産品をひとつも知らないわけだ。そんなもの触れる時間すらなかったのだから。

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