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フォローすること、されること

わたしは2019年の6月ごろにnoteに登録して、はじめこそぼちぼちカンタンな記事を投稿していたものの、年々投稿数が減っていっている。
気づけば、最近では数ヶ月なにも書かないことしばしば。

べつに意識的に沈黙しているわけではない。
放つエネルギーが潜んで、閉じこもってしまっているから書けない、書かない。
書く行為を選ば(べ)ない理由をこう言語化してみると、解離は人から言葉を奪うのかもしれない。

以前「言葉はエネルギーの乗り物」というフレーズに感銘を受けたのだけれど、そもそものエネルギーが不足している状態では、言葉は自在に外に出られないのかなあ。
残存エネルギーに見合わないカロリー発散はできないから。

この件については、一度きちんと向き合いたいと思う。

さて、本題。

「書く」とひと口に言っても、放たれるそれにはいろんなタイプがある。
エッセイだったり、レポートだったり、コラムだったり。文章には、それはそれはたくさんの種類がある。

noteはまとまった文章に強いプラットフォームだと思うけれど、いろんな文章をいろんな人が書かれていて、その人をフォローしたり、されたり。
わたしにもフォローさせていただいている人・してくださっている人がいて、それを振り返って、ふと思った。

人が誰かをフォローする理由づけは、どんな具合なんだろう?

わたしにとって、誰かをフォローするという行為は、わりと重たい意味をもつ。
食事にたとえるならば、主菜をしっかり摂るイメージ。
メインディッシュを、考えなしに次から次へと口にしていれば、すぐにお腹が膨れてしまう。
だから、食べるものは吟味して、必要な栄養を摂取したい。

その意味で、Twitterはわたしにとっては、回転が速すぎるツールだった。
いろんな食べ物が回転寿司のように流れていて、楽しいのだけれど、自分の食べるペースと流れてくるそれが釣り合わない。
だから、一時期は利用していたものの、あまり長くは続かなかった。

ふだんの自分の脳内は、わりと便秘気味で(自分ではよく「脳内便秘」と呼ぶ)、循環が滞っている自覚がある。
だからこそ、情報を取り入れる時に、受動的でなく、能動的である必要があると考えている。

それは自分から必要な情報を「獲りに行く」ような感覚だ。そうでないと、内臓が許容量を超えてパンクしてしまうから。

ただ、わたし自身はこう思うものの、SNSでここまで構えた使い方をする人は少数派かなと思う。
ふつうは、その人の発する情報が自分にとって有益だからとか、シンパシーを感じるとか、そんな感じだよね。

こう考えると、冒頭のとおり、わたしは有益な情報を発しているわけでも、共感を得られる内容を書いているわけでもない。
それなのにフォローしてくださっている方が少なからずいらっしゃるのは、ありがたいとともに、少しの罪悪感がある。

書きたいことはあるけど、心が乾いて筆先が追いつかない。こんなわたしをフォローしていても、たぶんそこからtakeできる何かは少ないだろう(そもそもそんな小難しいことを考えてフォローボタンを押さないとは思うけれど)。

願わくば、すこしでもプラスの連鎖や循環が生まれる言葉を、ゆっくりでも紡げることを。

追記
:わたしは「この人のことを応援したい」と思った時にフォローすることが多いです

あなた→わたし→誰か→ほかの誰か