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安部公房とわたしたち


(本自体が哲学的な内容なので、いつもと違ったお堅い印象を受けると思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです😊)
 
安部公房の文学による試み(固定化された世界観の解体と自由の実践)と センイチブックスの本屋づくりが、ピタリと重なりハッとしてしまいます。
 
・第4&5回 『砂の女』
 
 昆虫採集にある村を訪れた中学生教師の男は、砂の穴の中にある女の家に泊めてもらうことになったのだが、そこから抜け出せなくってしまう。社会から切り離され、ひたすら砂掻きを繰り返す毎日から自由を求め脱出を試みるが、結局、外部世界へ逃亡するのではなく、砂の穴で自由への戦いを行うことを自分の意志で選ぶ。当たり前として見、過ごしている世界の日常こそが、そこに生きる者を縛っているのかも知れない。日常性や自由の意味を俯瞰して考えさせられる作品。
 
・第6回 『他人の顔』
 
 顔を失い仮面を被った男が、他人となり自由を得、都市をさまよう。人間同士の通路である顔を持つことによって他者と関係を作れるようになるが、仮面を装着して素顔を出すその関係は虚なのか実なのか。仮面の向こうの他者も、社会による無言の要求に閉じ込められた仮面を被っているのではないか。私たちから固有性を奪い、孤独な匿名性へと押しやる現代をも見つめる作品。
 
 
 砂の世界に群れをなして住む閉鎖的な村社会、同じような顔をした人間たちが大衆の中に同化する都市の匿名社会も、どちらも大小規模に違いはあるけれど、群衆の中に存在している。
それを認識した時にはじめて、それまで見ていた「世界」は「限定的空間」に過ぎなかったことに気付く。
限定する枠が取り払われた時に、一段階広い思考空間を得ることがきる。
 また男が、水溜装置の発見によって、「自分で現実を変えていける」という実感を得、砂の村に「戻る」という選択をした時のように、「自らの意思で何かを実現できるという手応え」を掴んだとき、人は自由を感じることができる。
 センイチブックスのひと箱本屋活動が、
安部公房の文学表現:真の自由とは何か?制約からの解放やご都合主義ではなく、「自分をどのように生かしていくのか」を考え実践して行く、
に大きく重なります。
 
・選書、販売価格の自由(ただし、政治、宗教、ネットワークビジネスに誘導する選書はお断りしています)
・一日店長での表現の自由(拡大本屋、作品展、ワークショップなど)
・ 経済的な自由(自立した経済活動を追求する自由、個人ビジネスと関連付けた本屋もOK)
・目的の自由(最大多様の最大幸福。どこに満足を得るかは棚主の活動次第。)
・その他 企画・実施の自由 (棚主交流会、他の棚主とのコラボの自由 など)
・関わり度合いの自由 (いつも全力疾走ではいられません)
(改めて書き出すと、月額棚料3300円が秘めている可能性は大!)
 
こうした自由な思考と実践が、創造性を解放します。

本棚は個人の顔。多様な顔を持つ本棚との対話は、単に違った視点を得ること以上の意味を持ちます。本棚と、深い次元で本質的なコミュニケーションが交わされる。それは、私たちが世界との関わり方を根本的に見直したり、自己と他者への関心や理解を深める過程でもあるのです。
 
本屋をつくって行く過程で、棚主さん同士やお客さまと自然とコミュニティーができて行きますが、センイチブックスの目指す方向は(同化する)群衆化ではなく、独立した本屋の共同運営にあります
その根底にある「本に出会い、本屋をやり、本をもっと好きになる循環に一人でも多くの人を」という想いが、各本屋を繋いでいます。 

センイチブックス全体が特定の「色」を持つことなく、
世の中の均一化、画一化されていく流れとは違った時空間と、
「豊かな世界」を追求できる箱を用意すること、
それが管理人の役目だと思っています。

これからも、多様な本屋活動による自由の実践(「自分という個をどのように生かして行くか」の試み)を通し、知と創造を社会に解放するイノベーティブな本屋でありたいと思っています。 
 
 安部公房が何十年も暮らした土地から数百メートルに位置するセンイチブックスの
一人の棚主(No.5「ももいろなダチョウ」さん)による声掛けで、
仙川安部公房生誕100周年祭実行委員ができ、
生誕100年祭に向けた読書会で、
センイチブックスの存在意義を安部公房自身が教えてくれるとは、
何とも面白いなぁ、と思います。
 
私たちの本屋づくりも、この作家の手記の中の一章なのでは。。。



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