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【歴史コラム⑨】薩摩

今まであまり触れてこなかった(いうほど回数書いてないけど)幕末のお話。幕末ってあんまり得意じゃなく、勉強しだしたのも大学に入ってから。大学京都だったのと、当時大河ドラマが「新選組」だったので、各地巡って勉強しだした。だから知識としては新しい方だ。といっても10数年前だけど

さて薩摩といえば現在の鹿児島県。薩摩藩主初代は島津家久。言わずとしれた鬼島津、義弘の3男。義弘といえば島津家の基礎を築いた15代当主貴久の子供。貴久には子供が4人いてそれぞれ優秀。16代当主義久、17代当主義弘、数々の合戦で活躍した歳久、九州各地の戦いで活躍した家久(初代藩主とは別)。私は島津家が結構好きです。特に貴久の時代がいい。各地にライバル(大友家、龍造寺家)がいたけど優秀な家臣と貴久の能力値の高さ。素晴らしいと思う。

この薩摩、転機は何といっても関ヶ原の戦いでしょう。関ヶ原の戦い時には九州に黒田如水がいたので当主義久は動けなかった。京都にいた義弘が西軍として参陣するが、戦う事はなかった。静観を決め込み、負けと判断すると島津の退き口と呼ばれる行動をし薩摩に帰還。戦後徳川家から詰問を受け討伐されそうになるが和平交渉をし、「当主の義久は知らない事であり、戦いに参加していない」ということで所領安堵となった。がこの行為をずっと恨みに思っていて、幕末に繋がっていく。250年もの間恨み続けるって凄いよね。長州の毛利家は所領没収されてるから分からんではないけど、島津家ってそのままなのに

薩摩藩は当初幕府側だった。篤姫を11代将軍家茂に嫁がせたりして結び付きが強かった。禁門の変や蛤御門の変では幕府側の主力して戦い、幕府軍随一の力を見せていた。長州藩はこれを恨みに思い、薩摩藩とは犬猿の仲だった。草履の下敷に薩摩と書いて履いていたりしていたそうだ。

薩摩藩というのは借金まみれの藩で、500万両という借金をかかえていました。現在の価値でいうと1兆2500億円。250年かけて返す、だから無利子にしてと言って返済してました。この250年が最近終了したそうですけど、薩摩藩はとっくになくなっていて明治のころから返済せず踏み倒したそうです。

薩摩藩は幕府側で戦っていたけど、イギリスと戦争になり、ボロボロに負けます。それで諸外国の強さ、文明を思い知らされ、西郷や大久保といった志士が政治をするようになり、意見が変わっていきました。で薩長同盟ができ、討幕になっていくんですね。薩長同盟ってのはようは貿易です。琉球を通じて貿易していた薩摩が武器を仕入れ、それを長州に渡す。その仲介を坂本龍馬の亀山社中が行うというものです。最新式の武器は特別な訓練も必要なく誰でも扱え、能力が変わらない。だから長州で奇兵隊ができて軍隊整備できていったんですね

明治になって薩摩・長州・土佐で政治が行われますが、征韓論によって薩摩の重鎮は政治の中心から降りてしまいます。で政党政治になっていったんですね。

さて本題はここからです。薩摩藩といえば示現流という剣法。とにかく一撃で相手を倒す。初手の一撃に全てを込めるという剣法。新選組近藤勇も”薩摩の初手は受けずにかわせ”と命令してたそうですから。しかも「きえぇぇぇ」と奇声を上げて襲ってくるのがこの示現流。怖すぎる。

薩摩の言葉って分からないですよね。ドラマとかでも西郷さんの言葉って独特。あれも意味があったんです。薩摩の軍法が他所に漏れないようにあえてああいう訛りの言葉をつかっていたと。幕末時代軍の会議で薩摩の言葉の半分以上は聞き取れなかったそうです。江戸城無血開城でも勝海舟と西郷の会談で西郷の言葉が聞き取れなかった勝が「全て西郷さんに任せる」と投げ出したともいわれてます。

非常に計算しつくされた薩摩藩。剣術も言葉も政治も。不思議な所だなって思います。まだ一度もいった事ないんですけど、鹿児島城とか見てみたい。後特攻の知覧とか。歴史ってやっぱり面白い。

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