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教科書はどこまで正しいか?―「Gerstmann症候群」を題材に

先日、荒神氏と話していた時のこと、
「知識領域によっては『教科書に載る話』『研究や臨床における肌感覚』非常に解離がある」という話が出ました。

こういう状況だと、「どの教科書にも載っていて、真面目な学生が必ず覚えてくる知識」が、「専門家はほとんど誰も真に受けていない話」だったり、「臨床家にとっては重箱の隅をつつくようなマイナー知識」だったりする……という事態が起きるわけですね。

「テストで点が取れること」自体にもそれなりに価値はあるのでそれはそれで良いのですが、「それが全てではない」という「気付きのきっかけ」がどこかにあると良いよなぁ……と思ったりもします。

そんな例として私の頭をよぎったのは「Gerstmann症候群 (Gerstmann syndrome)でした。

「左頭頂葉といえばGerstmann症候群」というマッチングは非常に学生に浸透しているわけですが、「実際のところは……」というのが今回のお話。

例によって今回もややマニアックな話となっております。




教科書におけるGerstmann症候群

はじめに、「症候群syndrome」という言葉について説明しておきます。

症候群(syndrome)とは、相互に関連し合う複数の医学的な徴候や症状のセットで、しばしばそのセットが特定の病態と相関するものである。
A syndrome is a set of medical signs and symptoms which are correlated with each other and often associated with a particular disease or disorder.

Wikipedia (Syndrome) (訳は神崎による)

「症候群」とは「症状」の拡張概念のようなものとも言えるでしょうか。

例えば、「よく手が震える」とか「手足の動きが鈍くなった」という出来事の一つ一つは「症状」ですが、それが同時に発症してきた場合には単独の「症状」よりも意味のある情報をもたらす場合があり、そのような「症状のまとまり」「症候群」と名付けているわけです。


では、「Gerstmann症候群」とは、どんな症候の集合なのでしょうか。
医学生のよく使うテキストには、次のように書いてあります。


左角回の障害により.手指失認,左右失認,失書,失算の4徴を呈するものを,Gerstmann症候群という.

[手指失認] 自分の指が「何指」か分からず,「人差し指」と言われてもその指を指示できない.
[左右失認] 自分にとってどちら側が右か左か分からない.
[失書] 文字が書けない.(写字より特に自発書字が障害されやすい)
[失算] 計算ができない.

医療情報科学研究所 (2011) 病気がみえる(7) 脳・神経 メディックメディア
※リンク先は新版です

なお、付け加えて言っておくと、「手指の呼称・理解」「左右の判断」「書字」「計算」は全て言語の影響を受けるので、明らかな失語がある場合にはこれら4つが出来なかったとしてもGerstmann症候群とは扱いません


さて、ほとんどの医学生向け教科書の記述は上記のテキストとおおむね同じですし、この記述自体はそれほど間違っていません。

そして、テストの得意な医学系の学生たち「左頭頂葉」「Gerstmann症候群」「手指失認・左右失認・失書・失算」丸暗記するわけです。

脳や神経を専門としない医師のほとんどは、この理解に基づいて「Gerstmann症候群」を「知っている」と思っています。


「Gerstmann症候群」はその名の通り、医師ゲルストマン(Jodef Gerstmann; 1887-1969)によって報告された症候群です。

最初から単一の論文でこれら4つの症候が結びつけられて症候群として提唱されたわけではなく、ゲルストマンが1924年から1930年頃にかけて左頭頂葉損傷に関する複数の論文を発表し、それが後から「Gerstmann症候群」として確立されたようです。

1924年に発表された第一報のタイトルが「Fingeragnosie - eine umschriebene storung der orientierung am eigenen Korper (手指失認:自身の身体の位置付けに限局した障害)となっていますから、少なくとも「手指失認」は最初の論文で取り上げられていることが分かります。

ちなみにゲルストマンはオーストリアの神経内科医でしたが、ユダヤ人だったためナチスから逃れることとなり、1930年代(つまりこれら一連の論文を発表した数年後)にアメリカへと研究の場を移しています。


ゲルストマンは、自身の1957年のレビューの中で、「Gerstmann症候群」は「これらの症状はいずれも際立って認められる」「その組み合わせで出現する率が高い」「脳の損傷部位を示唆する診断的価値が高い(左の頭頂葉から後頭葉にかけての障害を示唆する)」ことが示されたと論じています(Gerstmann, 1957)。

これが正しければ、確かに「手指失認・左右失認・失書・失算」を一つのパッケージとして名付ける意義は大きいように感じます。


頭頂葉って、どこ?

このGerstmann症候群は、確立されてから今日まで、一般的に「左頭頂葉」で生じる例が多いと報告されています。

「左頭頂葉」とはココです↓

Image by BodyParts3D ©The Database Center for Life Science via Wikimedia commons


それから、「角回」という言葉も出てきましたね。

「頭頂葉」「下頭頂小葉」「角回」は以下の図のような包含関係になっています。

頭頂葉⊃下頭頂小葉⊃角回

「関東地方」「東京都」「千代田区」みたいな感じですね。

なので、これらの言葉が出てきても「ほーん、まぁ頭頂葉のこと言ってんだな」と思っておいて下さい。


先ほどのゲルストマンの「左の頭頂葉から後頭葉にかけて」とは、「下頭頂小葉」のことを指しているようにも読めます。

「角回」と名指しされるようになるのはもう少し後世の知見が集積されてからです。


ここでもう一つ注意してほしいのは、「左頭頂葉損傷以外で起きた場合にも、臨床症候がそれを満たせばGerstmann症候群と呼びうる」ということです。

「症候群」とは「症候の集まり」ですから、その臨床症候が十分な条件を満たしていれば、病巣や病態が一般に予想されるものと違っても「〇〇症候群」と呼んで差し支えないのです。

実際検索してみると、左頭頂葉損傷以外で生じたGerstmann症候群の症例報告も見つかります。(Baba, 1997; Tanabe, 2020 など)

この点で、先ほどの「病気がみえる」の説明は(厳しく読めば)間違いがあります。どこだか分かりますね?

左角回の障害により.手指失認,左右失認,失書,失算の4徴を呈するものを,Gerstmann症候群という.

医療情報科学研究所 (2011) 病気がみえる(7) 脳・神経 メディックメディア
※リンク先は新版です

そう、「左角回の障害により」と病巣を限定してしまっている点です。

症候診断は、病巣や病態を知らない状態で下せるものです。

それが結果的に一定の病巣や病態を示唆するから、「症候群」としての診断的価値がある……というロジックなのです。


「Fiction」と呼ばれた症候群

さて、「左頭頂葉損傷によるGerstmann症候群」を「虚構fictionである」と挑発的に断じたのはベントン (Arthur L. Benton)です。
(ベントンも視知覚検査に名を残している有名人なので心理系の方にとってはお馴染みですね)

彼は脳損傷100症例を対象に、「Gerstmann症候群」は本当に「まとまりとして起こりやすいのか」を検討しました。(Benton, 1961)

ベントンが評価対象としたのは以下の7項目です

  • 左右の認知

  • 手指の認知

  • 計算

  • 書字

  • 構成

  • 読字

  • 視覚的記憶

なお、「構成」は広義な概念ですが、ベントンの論文では「棒やブロックで見本通りの物を組み立てる」という課題を行っています。
それから「視覚的記憶」では「一度見せられた図形を後から多肢選択方式で回答する」という課題を実施しています。

さて、ベントンの評価項目のうち、太字で示した上4つの項目「Gerstmann症候群」に含まれる認知機能です。

一方で、細字の下3つの項目「Gerstmann症候群」に含まれていない、しかし頭頂葉が関連すると知られている機能です。

本当に「手指失認・左右失認・失書・失算」が「一つの症候群として出現しやすい」のであれば、上の4項目は下の3項目よりも高い相関性を示すと想定されます。


しかし、ベントンの結果はこれを支持しませんでした

これら7つの項目間の相関係数は、いずれも0.35~0.62という中程度の相関を示したものの、「左右認知」「手指認知」「計算」「書字」の4項目が、「構成」や「読字」や「視覚的記憶」よりも特に相関が高いということはありませんでした

「左右」「手指」「計算」「書字」の4項目を特別視する統計学的根拠は見出せなかったのです。


別の多数例研究でも、やはり「Gerstmann症候群」を支持する結果は出ませんでした。

ハインブルガーは、脳疾患の456症例(脳卒中、脳腫瘍、頭部外傷など)で、「本当にGerstmannの4つの症候は揃いやすいのか」を検証しました。(Heimburger, 1964)

この456例の中では、Gerstmannの4つの症候のうち、「1つを満たす症例」が33例、「2つを満たす症例」が32例、「3つを満たす症例」が23例、「4つ全てを満たす症例」が23例でした。

上でベントンが示したようにこれらの症候は共起しやすいので、「4つの独立事象」を仮定したのとは異なるパターンを示しています。しかし、これだけ「一方があってもう一方がない」パターンが頻繁だとすれば、「同じ部位の損傷で同時に生じる4つの症候である」とは到底言えないでしょう。

つまるところ、「4つの症候が揃う」ことの必然性が「1つ~3つだけ出現する」事象よりも高いとは言えず、「たまたま4つ揃う症例もいる」という以上のことが言える結果ではありませんでした


ベントンらとハインブルガーらによる多数例での追試は、「頭頂葉の損傷によってそれなりの確率で生じる認知機能症候がいくつかある」「それらは頭頂葉という原因が共通しているので併発しやすい」という以上のことを示さなかったのです。

こうなると、「Gerstmann症候群の4症候を特別視する根拠は無い」と言わざるを得ないでしょう。


現代の私たちへのアップデートパッチ

このように、「Gerstmann症候群」の概念の妥当性を巡っては、20世紀の間にどんでん返しがありました。


しかし、テスト勉強としての覚えやすさからか、

「手指失認・左右失認・失書・失算=Gerstmann症候群=左頭頂葉」

という図式は今でも医学生の「ゴールデンスタンダード」となっています。


21世紀の私たちはGerstmann症候群を「捨てる」べきでしょうか?


あくまで私見を述べさせてもらうならば、「『Gerstmann症候群』という概念を無視して通る必要は無い。ただし、アップデートは必要」という立場がベターかなと思っています。


アップデートのための1つ目の追加パッチは、「Gerstmann症候群の4症候以外にも、左頭頂葉と関連する症候はある。それらはGerstmannの4症候に比べて何ら診断的価値が低いわけではない」ということです。

これについてはベントンらの研究が如実に示しているでしょう。

彼らの論文では「Gerstmann症候群に含まれていないが頭頂葉と関連する症状」として「構成障害」「読字障害」があげられていましたね。

それからややコアな話ですが、日本人の場合には文字種による障害傾向が病巣情報を持っている場合があり、左頭頂葉の(白質を含む)損傷では原則として仮名・漢字の書字障害と仮名の読字障害が顕著になり、漢字の読字は仮名より軽度な傾向があると報告されています。(Yamadori, 1975 など)

また、「手指失認」という用語からは「手指の名前を間違える」ことに重点が置かれていそうですが、実は「左頭頂葉障害では身体や空間に関する言語的操作が苦手になる」という現象が他の形でも指摘されており、「手指失認」や「左右失認」はその症状の一部分だけを見ている可能性があります。これはGerstmannの最初の論文のタイトルにも仄めかされていますね。

「左頭頂葉障害で生じる言語障害」については、さらに面白い話がどんどん湧いてくるんですが、これはまた別の機会に譲りましょう。


2つ目の追加パッチは、「Gerstmann症候群の4症候が部分的にしか認められないからと言って、それは何ら左頭頂葉の疑いを弱めるものではない」ということです。

これについては、ハインブルガーの研究が「4つの症候が綺麗に揃うことは非常に稀であり、わざわざ4つ揃うことに意味を見出す必要は無い」と示してくれたことを思い出せば良いでしょう。

「手指失認・左右失認・失書・失算」のうち、たとえ一つでも認められたなら、頭頂葉の障害を疑って更に検査をする根拠となりえるでしょう。


こうしてアップデートした上で見ると、現代的には「Gerstmann症候群」「左頭頂葉障害と関連するいくつかの症候の組み合わせがたまたま揃った症例をそう呼んでいた」という位置づけになるのではないかと思います。

「純粋なGerstmann症候群(つまり、4症候はしっかり存在し、かつ他の認知機能障害が見られない症例)」も実在しないわけではないので「fiction」とはやや言い過ぎな感がありますが、実際的には「極めて例外的で稀有な症例」と言えるでしょう。


頭頂葉は非常に奥深いテーマの一つであり、それを「ざっくり知るための最初のとっかかり」として見るならば、「Gerstmann症候群」という「分かりやすく単純化した理解」も決して悪くないと思います。

しかしもし、脳と心に興味を持つならば、そこからもう一歩踏み込んでみるともっと面白い景色が垣間見えると思います。


最後に一つ、ゲルストマンを擁護しておきます。

ここで紹介したような「Gerstmann症候群という概念に対する反論」に対して更に反論・議論も湧き起こっており、「身体図式・左右・書字・計算という認知機構には一定の質的類似性がある。だからこれが非常に近い部分に宿っていることは偶然ではなく必然性があるのでは」といった仮説の下で論じる検討もなされています。

そして、私もこのシナリオには一定の説明力があると感じています。


頭頂葉は脳の中でも特にミステリアスな部位の一つですね。

議論は尽きないところですが、本日はここまで。



確認テスト

以下Q1~Q3の各文について、誤りがあれば修正しなさい。(解答・解説は下にあります)


Q1: Gerstmann症候群は、脳損傷で失語症と同様によく見られる疾患である。


Q2: Gerstmann症候群の原因となる一般的な病巣は、左前頭葉である。


Q3: 現在ではGerstmann症候群という用語は専門家には使われていない。


以下に解答と解説があります。




解答・解説


Q1: Gerstmann症候群は、臨床的には非常に稀な症候群である

 Heimburger (1964)の研究では、脳疾患456例の中で、Gerstmann症候群の4症候を満たした症例は23例、つまり全体の5%でしかありませんでした。さらに、Heimburgerは「Gerstmann症候群の症候を満たしている」ことしか確認していないので、「純粋なGerstmann症候群」すなわち「4症候を満たした上で、完全に他の認知機能症状の合併が無いGerstmann症候群」を求めるならば、これは極めて稀であると言えます。
 なお、脳卒中で失語は約3割程度に出現する症候であり、こちらは頻繁に見られます。


A2: Gerstmann症候群を生じる一般的な病巣は、左頭頂葉である。

 左であるという点は間違っていませんが、前頭葉ではなく頭頂葉の病変で生じることが一般的です。頭頂葉の血管パターンは個人差が大きい上に、前頭葉や側頭葉まで広がる病巣の場合には失語も合併してしまうことが多いので、これも純粋Gerstmann症候群がなかなか見つからない理由の一つと考えられます。


A3: 現在でもGerstmann症候群という用語は使われている

 Google Scholarなどで「Gerstmann症候群」や「Gerstmann syndrome」を調べてみると分かるように、現在でも「Gerstmann症候群」という語は使われていますし、これをテーマにした論文も出ています。ただし、いずれの研究も基本的には上記のような批判史を踏まえた上で、より大局的な観点の中に位置付けようとする姿勢が見られます。古典的症候群であっても、その知見がいつまでも「古典」から進歩していないわけではない、ということですね。




【引用文献】

  • Gerstmann J. Some notes on the Gerstmann syndrome. Neurology. 1957;7: 866–869. doi:10.1212/wnl.7.12.866

  • Baba T, Shibata Y, Kubota F, Goto T, Yoshitake A. A case of gerstmann-like syndrome following coronary artery bypass grafting. THE J OF JPN SOC FOR CLIN ANESTH. 1997;17: 439–443. doi:10.2199/jjsca.17.439

  • Tanabe N, Komuro T, Mochida A, Fujita Y, Nakagawa M, Hyuga J, et al. A case of inferior frontal gyrus infarction manifesting Gerstmann syndrome. Neurocase. 2020;26: 368–371. doi:10.1080/13554794.2020.1846059

  • Benton AL. THE FICTION OF THE “GERSTMANN SYNDROME.” J Neurol Neurosurg Psychiatry. 1961;24: 176–181. doi:10.1136/jnnp.24.2.176

  • Heimburger RF, Demyer W, Reitan RM. IMPLICATIONS OF GERSTMANN’S SYNDROME. J Neurol Neurosurg Psychiatry. 1964;27: 52–57. doi:10.1136/jnnp.27.1.52

  • Yamadori, A. "Ideogram reading in alexia." Brain: a journal of neurology 98.2 (1975): 231-238.

【参考文献】


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