「九尾の狐」はなぜ那須の地で「殺生石」となったのか
那須の殺生石が割れたそうです。
以前からワイヤーで固定されていたところを見ると風化によって脆弱になっていたものと思われますが、最後の一押しになったのはここ数日の気温の変化による凝縮・膨張でしょうか。
ともあれ、
鎌倉時代から続く伝説なので、もし伝説が正しく伝えられてきた(※1)としたら、600~800年ほど鎮座していた大岩が割れた時代に立ち会ったことになるわけで、大変感慨深いものがあります。
「那須の殺生石」を知らない方でも、「玉藻前」とか「九尾の狐」というと聞いたことがあると思います。
そう、FG○とかモ○ストとかで有名なアレですね。
その「九尾の狐≒玉藻前」伝説の末に連なるものが、この石だったのです。
具体的な「殺生石」の存在感もなかなかのものですが、付随する伝承あっての「殺生石」だと思うので、折角ですからこの機会にちょっと紹介したいと思います。
これから供覧するのは、私が前に那須を訪れた折に調べた情報です。
「自分の生きている間に殺生石が割れた」という事態の感慨深さを一人でも多くの人に共有したいという一心で、今このnoteを書いています。
そもそも玉藻前とは
実は「京都に現われた玉藻前とは何者か」という話は今回中心にしたい話ではないので、「玉藻前・京都編」については極めて簡略なダイジェストでお送りしていきます。
大雑把に言えば大体こういう話です。
平安時代、京の都に美女がいました。
その美女は鳥羽上皇を誑かして京の平和を乱しました。
陰陽師が美女の正体を妖怪だと看破し、都から追い出しました。
憶測ですが、都の政争の中で概ねこれに近い展開があったのでしょうね。
モデルとされる人物の名前なども挙がっていますが、そもそもモデルとされた人物が「本当に悪女だった」のか、単に「都合が悪いから悪女だということにされた」のかすら、今となっては分かりません。
そして、この話には尾鰭が付きます。
曰く、かの美女の正体は狐の妖怪であった。
曰く、その狐とは中国にて悪行を働いた狐と同一である。(※2)
こうして都の政争から妖怪伝説が出来上がったわけです。
このように「平安の都の悪女伝説」として生まれた「玉藻前伝説」ですが、鎌倉時代頃から面白い「アフターストーリー」が付け加えられます。
曰く、玉藻前は平安京から狐の姿となって那須に逃げ延びた。
しかし、そこで鎌倉武士に討たれ、遺骸は殺生石となった。
なぜ那須なのか
上記の話を聞いた時に、私は最初に思いました。
「何で京都から一気に栃木なの? 遠くない?」
この謎解きは「伝説」の本体を読むだけでは明らかになりません。
「狐は京から那須に逃れ、そこで上総介広常と三浦介義純によって追い詰められ、矢で射られて退治されました」という話の中で、「なぜ栃木なのか」という理由が語られることはありません。
しかし、メタ的に見ると面白い事実がいくつか浮かび上がってきます。
貴族から武士への権力移動
一つ目。
この時代が、京都を中心とした「朝廷の貴族」から、鎌倉を中心とした「関東の武士」へと権力が推移していく時代の節目であったこと。
つまり、「京都で悪さをした妖怪を上野の地で武士たちが討ち取ったぞ」という筋書きは、「朝廷が武家にお墨付きを与えるのに丁度良い物語」だったわけですね。
更に退治の仕方を見ると、「安倍泰成(※安倍晴明の子孫です)が陰陽術で正体を見抜くが、仕留めることは出来なかった」→「武士たちが弓矢でその本体を殺す」という物語構造となっており、言ってみれば武力行使による内憂外患の解決を肯定する結末とも読み取れます。
タイムリーに大河ドラマにも登場したことで「こんな有名人物が玉藻前討伐の中心人物だったのか!」という反応がありますが、むしろ「ありえそうな話」としては順序が逆ではないかと思います。
つまり身も蓋もなく言えば、「あの京都の大妖怪を退治したのは我らのボスだぞ! すごいんだぞ!」と祭り上げるのに「玉藻前」の伝説が持ち出された可能性が高い……というのが私の推測です。
騎射の競技化
二つ目。
藤井 英嘉(1969)『鎌倉時代の馬上三物と武士に影響を与えたと考えられる仏教思想の研究』によれば、「犬追物」と呼ばれる競技がちょうどこの時期に成立しています。(その起源を玉藻前討伐とする縁起もあるようです)
これは簡単に言えば「馬に乗りながら動物めがけて弓を射る」競技で、要は「形式化・遊戯化された狩猟」とも言えます。
今でこそ「流鏑馬」などは「芸」の一種のように見られがちですが、武士政権の黎明期たる当時には、これらは単なる「遊び」の枠に収まるものでは無かったでしょう。
上述の藤井は、こうした活動が下記のような性質を併せ持っていたと指摘しています。
これが、同時代の京都を騒がせた「狐の妖怪」の伝説と結び付けられるとどうなるか。
玉藻前は、京にいた時には人間の姿をしていたわけですが、那須に逃げ延びてからは「本来の姿」である狐の姿を取っていたと語られます。
ここに何らかの「辻褄合わせ」の匂いを感じませんか。
ちょっと変わった狐を射止めたら「これこそが都を騒がせし妖狐なり」と言い張れば「玉藻前を討伐した」という物語を吹聴できるわけですよ。
そもそも「犬追物」の本質を「軍事演習」と見るならば、「物々しい武士が馬に乗って何か動物を仕留める」という素振りが行事の中核であり、その行事を成立させるには「それらしい狐の獲物」すら不要かもしれません。
先の節で触れた内容を踏まえれば、鎌倉武士には「玉藻前である狐を討伐した」と触れ回りたいモチベーションが十分にあり、武士文化の中では「武士の弓の腕前で動物を仕留める」という行事がタイミング良く登場していた。
「武士の力」を政治的に肯定するものが「朝廷からのお墨付き」であり、武力的に象徴する行為が「騎射の軍事演習」であったと考えると、これらがコインの裏表として一つの伝説に紐付けられたことは偶然とは思えません。
なお、類似の論を展開している記事として下記のブログも参考に挙げておきます。(こちらはソースが確認し難いので信頼度は微妙ですが)
このブログ記事では
としております。
細部の流れはやや異なるものの、「玉藻前討伐」の伝説が「誇示的な側面を持った武士の軍事演習」に端を発するとする点では、大筋において似通った主張であると言えましょう。
ということで、「玉藻前伝説の成立時期は、貴族社会から武家社会への権力移動が起こった時期であり、『都を乱した妖怪を関東で武士が討ち取った』という物語は武士権力の正当化にも武力保持の正当化にも都合の良いストーリーだったのではないか」というのが、私の得た結論です。
なぜ"殺生"石となったか
上記の「玉藻前の討伐物語」は室町時代頃には現代の形となったようで、その後も二次創作が人気を博して現代まで伝わっています。
しかし、「狐の妖怪は武士に討たれました。めでたしめでたし」では最初の「殺生石」の話には繋がりません。ここには後日譚があります
狐の姿のまま矢で射られた玉藻前はそこで死に絶え、死後に石となり、近寄った人間や動物の命を奪うようになったと言うのです。
(たまに「石に封印された」と言っている人がいますが、これは何か別の伝説と混ざっているのではないかと。石になる前に玉藻前は死んでます)
これが「玉藻前が殺生石になった」という伝説のあらましです。
このエピソードを見ると、「人間に恨みがあるだけならともかく、他の動物まで軒並み殺すんかい!」って感じがしませんか。
しかし実は、この伝承こそ「殺生石」の本質を表しているようです。
那須は現在では温泉リゾート地として有名です。
そして同時に、火山ガスの吹き出る火山帯でもあります。
こういう、殺生石を近景で捉えた写真を見ると「斜面に石が鎮座している」感じがするんですが、これ地図上で見るとほぼ「谷間」にあるんですよね。
火山ガスの中でも「硫化水素(H2S)」「二酸化硫黄(SO2)」は空気より重いので上に逃げず低いところに貯まる傾向があります。
温泉地に漂う「硫黄の匂い」はほぼこの硫化水素の匂いなんですが、実はよく死亡事故の原因にもなっている怖いガスです(環境省の参考資料)
……ということで、
「那須は火山地帯なので有毒のガスが出ている」
「硫化水素は空気より重いので低いところに貯まる」
「殺生石は那須高原の谷間に位置している」
と来れば、もう説明は不要でしょう。
そりゃあ無差別に人間も動物も殺しますよね。だってガスなんだもん。
目に見えないガスで人間や動物がバタバタと死んで、そこに目を引く巨大な岩があれば、「硫化水素」という化学物質を知らなかった時代の人々がそれを「大岩の持つ呪い」と考えることは全く自然な発想でしょう。
ただでさえ、「巨大な自然物」というのは見る人の裡に畏敬の念を湧き上がらせる力を持っています。
ましてや「そこで討たれた大妖怪の伝説」があれば、どうなるか。
ちなみに、ネットを渉猟していたら興味深い記事も見つけました。
「殺生石の呪い」は、現代においてもまだ「現役」のようです。
結び
というわけで、今回のまとめ。
・玉藻前が那須で討たれた物語には鎌倉武士の権力が関わっている
・殺生石の「殺生」は硫化水素ガスによる中毒である
以上、いつもよりちょっと長い記事になりました。
長々とお付き合い頂きありがとうございました。
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