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わたしと、彼女と秘密のくらし。/ルームシェアとスナックの思い出


 敷金礼金なし、風呂トイレ別、Wi-Fi付き水道費共益費込みポッキリ3万5000円

 初めて実家を出たのは、大学3年生の春のことでした。わたしの実家から大学までは、電車で15分、歩いて30分ほどで、1人暮らしをするほどの距離でもありませんでした。というより、実家から通うことを条件に大学に入ることが許されたので、仕方なく地元の大学に進んだというだけのことです。進学当時、父が急に仕事を辞めてしまい(4年に1回は辞めるので、わたしはこれを「オリンピック」と呼んでいました)、当時の担任の薦めで受けたのがこの大学でした。もし通学圏内に国公立大学がなかったなら、今頃はきっとディズニーランドのキャストとして働いていたのではないか、と思います。
 入ったからには、馬鹿な大学生にはなるまい。そう思っていたのも束の間、体育会系の部活に入ったわたしは、ずるずると「馬鹿な大学生」になり果てました。授業やバイトには真面目に行っていましたが、夜は決まって友人と遊びに出かけました。みんなが部活と勉強に明け暮れていた高校時代には放課後に遊ぶことがなかったので、夢に描いていた青春が現実になったことが嬉しくて堪らなかったのです。21時30分、という早すぎる田舎の終電までに遊びが終わる訳もなく、毎日1人暮らしをしている友人の家に泊めてもらいました。
 そのことに、もちろん親は良い顔をしませんでした。そしてある日、とうとう父親からの雷が落ちたのです。向こうは心配して言ったのでしょうが「夜にいる友人の中には、男だっているんだろう。危ないだろ」という言葉に、わたしは腹が立って「友人はみんないい人だ、危ないことなんてひとつもない。わたしの大切な人たちをそんな風に思うなんて、最低だ」と返してしまいました。部屋で1人で泣いていたわたしに、母がそっと近づいてきて、「お父さん、外で泣いてたよ」と言いました。親と言い争ったのは、あれが最初で最後です。


 このままじゃ駄目だ、そう思ったわたしは、1人暮らしすることを決意しました。しかし、1人で、ただの大学生が暮らしのお金を賄いきるのは難しいことでした。そこで、友人に声をかけたのです。

こっそり2人暮らし

 彼女は、電車ではるばる1時間かけ、毎日通学していました。本数も少なかったので、10時20分からの授業にも6時代の電車でなければいけないそう。とても仲の良い友達だったので、ルームシェアをしないか、と切り出せば、引っ越しまでそう時間はかかりませんでした。
 学生で、女子2人用の物件なんてなかったので、わたしの名前で契約をして、卒業する先輩たちから冷蔵庫や洗濯機をもらい、2人で抱えて運びました。部屋はカーペットを敷いて使うのが条件だったけど、高くてとても買えなかったので、子ども部屋にあるアルファベットが書いたパズルマットみたいなものを買いました。大きさが部屋と全然合ってなくて、ハサミで無理やり切ったので端はボロボロでした。6畳しかなくて布団を敷くのがやっと、家具は折りたためるテーブルひとつだけでした。
 部屋は古くて、湿気がすごいし、ゴキブリも出ました。彼女はゴキブリを見るのは初めてだったらしいのですが、相当苦手だったらしく、急に電話がかかってきて何事かと思ったら「ゴキブリが出た。混乱しすぎて東京のゴキブリ業者に電話をしてしまった。もう一生部屋から出られない」と言うのです。急いで家に帰り、ゴキブリを部屋から追い出したわたしは、ひととき彼女のヒーローになりました。
 それでも、そんな部屋でも、電車がなくて、友人の家に泊まるかガストで眠っていたわたしたちにとっては、「帰る場所がある」だけで十分すぎました。いえ、何より、彼女がいたから楽しかったのだと思います。

スナックで稼ごう

 わたしたちは2人とも昼のバイトをしていましたが、時給が低かったのでそれだけでは足りませんでした。家賃3万5000円を2人で割って1万7500円ずつだけど、光熱費だとか、食費とか、あらゆるものに支払うお金が必要でした。それで、友人の紹介で、夜はスナックで働くことにしました。昼のバイトは自給760円だったけど、スナックは1400円からで、バックと呼ばれる報酬もありました。
 スナックというけどママはいなくて、形態としてはキャバクラだったと思います。そのお店は女子大生しか働いていなくて、殆どわたしの友人たちで構成されていました。肉体的なセクハラや、侮辱的な発言も沢山されましたし、お店のオーナーは守ってくれなかったので、女の子同士で助け合いながらやっていました。お酒を飲みすぎていると思えば自分が代わりに飲んで彼女をトイレに行かせ、セクハラされていたら冗談風にごまかしてその手を払いました。
 勉強になることはとても多くて、特に大人の男性への話し方とか、心が傷つかないように言葉を流す力とか、そんな知りたくもないスキルが身に付きました。けれど、「水商売をしていたら勉強になるでしょう」と、知ったようにお客さんに言われるのは、なんだか好きじゃありませんでした。私たちが懸命に地獄を学びに変えているのに、それを手柄のようにいわないでよ、などと考えながら日々は過ぎていきました。
 一度、連休のときなんて、昼のバイトと夜のバイトを両方やる日々が辛すぎて、彼女と2人で泣きました。眠る時間がほとんどなくて、生きるために働いているのか、働くために生きるのか、わからなくなってしまって、「いっそ1つのことだけやれる社会人なら、休みがあったら、どんなに楽か」と語り合いました。早く社会人になりたいね、と笑いました。
 帰ってこられるはずの部屋は、お風呂と少しの睡眠だけの空間になってしまって、薄くて硬い布団は敷きっぱなしでした。でも、彼女はたまに余裕があると料理を作ってくれて、冷蔵庫についた「おしながき」という張り紙を見て、元気を貰いました。茄子のはさみ揚げを食べたのは、あれが初めてでした。

部屋から社会に出てしまっても

 時は過ぎ、色々なことがあって、わたしたちは結局1年で部屋を出ることにしました。このことは長くなるので省略しますが、全てわたしの勝手であり、彼女には非常に申し訳ないことをしたと思っています。
 彼女は引っ越しとき、殆どの片づけをしてくれて、「残りは任せたよ」と言われて部屋に行った頃には、モノは何もなく、つぎはぎだらけのマットだけが敷かれていました。ぺりり、ぺりり、と剥がれていくマット。かさばらず、捨てやすくって泣けました。

 先日、あの部屋の近くを通ったら、台所の窓に調味料やお酒の空き缶が並んでいました。そういえば、彼女とわたしもよくお酒を飲んで、そこに並べていたのでした。洗って乾かすだけ乾かして、ろくに捨てずに置いていたので、やけに1人でよく飲む女子大生に見えていたと思います。


 わたしたちは来年から社会人になって、彼女は東京で働くのだと言います。東京にはこっちよりもゴキブリがたくさんいるよ、というと、ひどく怯えていました。あの時は社会人になったら今より楽だ、なんていったけど、なったらなったで大変なことが沢山あるのだと思います。
 わたしは土日祝が休みの仕事に就くので、来年は連休を楽しめることでしょう。けれど、連休がはじまるたびに、古くて狭い部屋で泣いたり笑ったりしたあの日々のことを、きっと思い出すのだと思います。

#はじめて借りたあの部屋

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