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”信ずる神は何か”と問われれば、私は”正しさの神だ”と答えるかもしれない(川天神・キアラシオ)

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わずか3件

前書き

 いると思っていた。あると思っていた。
 そう呼ばれる神が。そういった概念が。
 だが、いなかった。どこにも無かった。

 ひょっとすると調べたりないのかもしれないけれど。まあよい。

 しかしながら、呼び名がなければおさまりが悪いというもので、勝手ながら、今回、正しさの神なるものを創ろうと思う。

 川天神(かわあまのかみ)

 英語では、キアラシオ / kialacio

 かわあまのかみ → かわあましん → きあましん → きあらしお

 といった具合だ。少し無理があるか。まあこれもよい。
 これで、ようやく本題に入れる。

 私は、正しさの神、キアラシオを信仰している。のかもしれないという話を。

本題

1. 正しさ~川天神に寄せて~

 川があり、海に流れ、雲になって天を巡り、また雨になって川に戻る。
 自然には自然の流れがある。正しき物事の摂理というものがある。

 知性を持った人間の正しき流れというのは、その在り方というのは、いったいどのようなものなのだろうと。

 そこに見出したのが、私は、正しさだった。

 人間は知性でもって、道具を、科学を発展させ、理性でもって、集団を形成し、その秩序でこれだけ世界で繁栄していったのだと思う。

 よりよくしたい、楽に、快適に、便利に、欲を満たすべく。そんな本能の一方で、集団を形成する理性を持っている。それこそが人間が人間たる所以だと思う。相互扶助的な、助け合いだとか、手を取り合ったりだとかというものだ。

 その根幹を成すのが、正しさだ。

 改めると、ここでいう正しさとは、絶対的な正義や、国家における法律のみを指すのではない。時代時代によって、地域ごとによって、移ろい、変わりゆく、その時その場所で、追求され続ける正しさのことだ。

2. 現代日本の正しさ

 現代日本には、正しさというものがあり、提示されている。他の国や、他のサイズ感の組織もあるだろうが、ひとまず、現代日本だ。

 それは、憲法や、法律、条例といったものだ。だが、これも絶対ではない。改正するかしないかでてんやわんやだったり、時代に追いついていなかったりもする。最近だとAIとか。
 他にも、校則に、社則、ルール、マナー、暗黙の了解、不文律、いろんなものが押し合いへし合いしている。

 ただ、一つ言えることがあるとすれば、より大きい、人間というカテゴリや国というカテゴリのける正しさ、憲法や法律といった正しさというのは、弱者救済の意味合いが多分に含まれている。
 弱肉強食という野生唯一の絶対的な理において、知性を身に付けた人間は、その理から逸脱した存在だ。だからこそ、人間たらしめる理性をもつものであるならば、弱者救済の正しさというものを身に付けておかなければならない。
 これは強者であるほど、驕る事なかれという教訓でもある。強者であるからこそ、その強さを守るために使うべきであるというものだ。
 この言葉を忘れないで欲しい。

「正しさとは、振りかざす矛ではなく、身を守る盾でなければならない」

3. 振りかざされてしまう正しさ

「正しさとは、振りかざす矛ではなく、身を守る盾でなければならない」

 古代中国「矛と盾」の故事より生まれし「矛盾」という言葉になぞらえた、私の考えた言葉だ。

 正しさを振りかざしてしまう人間の、悪い例を出そう。
 長期休暇がある。例えばGWとか。長いお休みで、ついつい夜更かしして、昼の12時とかに起きてしまう生活を繰り返し、休暇明けにこう言う。

「あ~、連休明けきっつ…眠い…」

 そう、私である。
 そこに、正しさの人がやってきてこう言う。

「休みだからって夜更かしするから!お休みの日もきちんと規則正しく生活すればそんなことにならないのに!!」

 うむ。圧倒的正論である。
 だが、否。否なのである。それは、学校や仕事といった呪縛があるからこそ起床することができる人間が、休みの日に惰眠を貪ることで正気と長期的な目で見たやる気を回復させているので、必要な行為なのである。そのため、ただの漫然とした現状の愚痴であって、正論をぶつけられるいわれはない。
 また、それ以外の理由で規則正しい生活をしていない人もいるだろう。早起き自体に物凄いエネルギーを使っていて、休日はそのエネルギーを使わずに済む人とか、長い睡眠がストレス解消になったりとか、そもそも長く休まないと回復しなかったりとか…。
 そりゃ規則正しい生活のほうが正しいし、良いに決まっている。だが、その正しさを保つにはエネルギーがかかることもある。
 だのに、正しさを振りかざしてしまっては、軋轢を生むばかりで何も生まない。

 まあこんな例は、なんでもない日常の一幕のことだ。正しさだ何だと大仰にしなくてもいい。
 ところで、Twitter を少し覗いてみよう。本当に、正しさというのがいとも簡単に振るわれている様子が観察できるだろう。政治と民衆か、夫婦関係か、性別か、田舎と都会か。なにかと対立構造だ。毎日、何かが炎上し、何かが議論にも至らない感情と論理のぶつけあいで、燃えている。
 感情の人で言えば、きっと自分の中にある自分の生き方を、ちょっとずるいがここでは、その人の感情の正しさとしよう。その感情の正しさと、理性をもってして、論理だてて物事を運ばんとする論理の正しさとで、大きくぶつかり、燃えている。本当にまあよくも飽きずにやたらめったら感情と論理と言葉と画像とをぶつけあってるなと思う。かくいう私もそうである。特に、怒りのエネルギーはすさまじいものがある。怒りの人と言ってもいいかもしれない。

 閑話休題。

 私は、現代日本に住む、理性を持った人間であるため、理屈の通った論理の正しさを持っているが、それは振りかざすために持っているわけではないということを、常々気を付けながら生きている。だから、きちんと暴言は吐かないように、丁寧な言葉づかいを心がけているし、感情に振り回されたままツイートをしないようにしている。そもそも見なければいい話なんだが。
 感情の正しさを持った人たちは、感情がままに自分だけの正しさを振りかざし、振り回す。それを正せるのは、論理の正しさだ。論理の正しさは、自分を守るために、正しくない正しさを諭すために用いるのが、もっとも良いのではないかと思う。
 まあ、感情の正しさで生きている人間は、論理の正しさなど受け付けないのが常だが。

 振るわれているように見えてしまう正しさ、というのにも、気を付けたい。
 子どもや、箸の使い方を知らない外国人なんかに、箸の使い方を”教える”行為は、正しさを振りかざす行為ではなく、優しさであるからだ。箸も使えないなんてwと嘲笑しながらとかだと、別だけれど。

 正しさを、正しく用いよう。

4. 私が用いる正しさ

 自分は、自分のような人だけがいれば、社会は円滑に回っていく。そういう人であろうと、常に正しさを求めながら生きている。どうしてそんなことを続けられるのかと問われれば、やはり正しさ(川天神・キアラシオ)を信仰しているから、と言うだろう。

 ただ、そんな人ばかりではきっとつまらない世の中には、なるのかもしれない。
 正しさを守ることができるというのは、それだけきちんと理性が働くということで、人間同士の感情的な駆け引きよりも、きちんと対話を試みて話し合ってしまうので、恋愛的なドキドキは物足りなくなるだろうし、きっとガチャが稼ぎのソシャゲは全滅するだろう。賭博も嫌いだ。人の射幸心に漬けこむというのは、理性で歯止めの利かない人たちに付け入るということだと思っている。ただ、競馬に何百万と賭けて、勝てなくて身もだえしている様を傍から見るのは、こう言ってはなんだがやはり面白いと感じてしまう。そういう面白さが好きな人には、きっと物足りない世界になるだろう。もうVtuberとか壊滅的だ。スパチャとかしないから。

 閑話休題。

 私は、正しさの狂信者なので、過失以外はすべからく極刑で良いと思っている。
 路上喫煙禁止区域での路上喫煙も、車道における自転車の逆走も、傘刺し自転車やスマホ自転車も、条例のある地域におけるエスカレーター内の徒歩移動も。
 概ね、そういったルールというのは、それぞれの命を脅かす危険性を少しでも減らすために定められている物が多い。その次が物を盗まれたり壊されたりしないといったものだろう。
 私は、自分の命を保全するという行為は、生物にとって最も正しい行為であると思う。だからこそ、その命を脅かす様な振る舞いをする人間が、たとえ小さきものであろうと厳しい目を向けてしまう。

 正しさを守るために振るわれる正しさ。難しいものだ。戦争なんてものは、お互い自分が正義だと思っているのだから。

 だが、それは本当に正しさの過激派でしかない。怒りの人であるとさえ言えるだろう。世の中には改心という言葉もある。また、すべて極刑というのは正しくない。少なくとも、現代日本には守るべき正しさと、それに反した時の罰が提示されている。
 それによって、私は自分の正しさの狂信者の中で矛盾を抱えながら、それでも正しさを守って生きている。私は、私自身の正しさに振り回されぬよう、”私が振るう正しさ”が常に正しくあるよう、『身を守る盾でなければならない』時のみ、用いるようにしている。

5. 留意すべき正しさのふるまい

 神の教えというのは、守るものである。
 布教する、教えるというのはまあ有りだとは思うが、押し付けたり、強要したりするといったことは正しくない。まあ、まったくと言っていいほど正しくない。

 正しくないことにストレスを感じ、自分に苛立ち、他人に怒ってしまう人がいる。

 そう、私である。

 それは実に正しくない。前項で話したような、怒りの人にはならないように、気を付けてほしい。正しくなりすぎなくてよい。信心深いというのは、大変良いことだけれど、それ自体で自分自身を喪失してしまったり、感情に振り回されてしまっては、元も子もない。自分が気持ちよく、気分よく、健康に、健全に生きていくことが最も正しいことだとすれば、正しさに振り回されてしまうというのは、きっと正しくないことなのだろう。
 難しい。けれど、自分に合った正しさのふるまいを見つけていってほしい。そして私も、気を付け、留意し、追求し続けるつもりだ。

6. 川天神・キアラシオを信仰するメリット

 ここまで、長ったらしく講釈を垂れてきたわけだが、そんな堅っ苦しいのはどうでもよい。
 重要なのはここからである。
 そう、正しさを信仰することのメリットだ。

 「正しさに救われた」

 そう思うときがある。正しさを信仰し、正しさを身に付けた自分は、正しさを原動力とすることができるようになった。そして同時に、やらなくちゃいけないことへの抵抗が減る。
 接客してくれた人たちには、ありがとうと言った方が良いなと思った。正しいかなと思った。だからそうするようになった。
 家計簿は付けたほうがいいなと思った。収支がわかったほうが、良いと思った。だからそうするようになった。
 ゴミはちゃんと分別したほうが正しい。だからそうするようになった。
 きちんと野菜を食べようとか。たまには勉強しようかなとか。交通規則を守るとか。憲法、法律、条例、ルール、校則、社則、マナー…。

 そして、それは自分にも向くようになった。
 怒ってわけのわからないことを怒鳴り散らすより、きちんと理由を説明して叱った方がいいな、正しいなと思ったら、怒った時に止められるようになった。怒りのピークは6秒との噂もある。これで勝つる!
 自分に非があるとき、キチンとごめんなさいするのが正しいと思ったから、素直に謝れるようになった。
 人間は思い合っただけでは分かり合えないから、きちんと言葉にした方がいいなと思った。だから、きちんと言葉にして伝えるようになった。
 大人になってくると、誰も叱る人なんていなくなる。そうやって、横柄で自己中心的になっていった大人たちをチラホラと見かける。
 私は、そういうのが嫌だった。それは正しくないから。そうしていくうちに、常に自分が大丈夫か、自分を律するようになった。

 そうして、正しい行動を続けていると、メリットが生まれる。

 「信頼される」

 なんせ、きちんと道理が通って、きちんと伝えて、正しい行いをし続けるのだ。信頼されない方が難しいというものだ。

 「自己肯定感が高まる」

 なんせ、正しく生きているのだ。胸を張ってお天道様のもとを歩ける。信頼されるということも、自己肯定感を高めてくれる。

 「物事を丁寧に進めることができる」

 勉強とか仕事とかね。計画を立てたりとか。結構、生きていくのに重要なスキルが、正しいという道標でうまく進めることができる。きちんと話は通しておかないとなとか。
 正しい理由があれば、法律を味方にしたりして、先生や上司にも問題なく進言するといったこともできる。(というかそういう社会であってほしい)

 「好きな人と、末永く付き合える」

 別に恋人に限った話ではない。自分が、一緒に居たい人に対して、誠実で、きちんと分かり合おうとして、丁寧に話していけば。そして、その人もまた同じような人であれば。
 その人とはずっと仲良く、一緒に居られる。そう信じている。

 信仰というのは、自分の中に、一つの柱を立てるようなものだと思う。自分の芯か、拠り所か。だから神は一柱という単位なのかもしれない。

感想とまとめ

 正しくないからと言って、正しさを守れなかったからと言って、他人や、自分を攻めすぎてはいけない。仏の顔も三度撫でれば腹立てる、とあるように、二度までは仏でさえ許してくれるのだ。キアラシオだって許してくれるさ。
 それでいうと、何もかも秩序だっていて、論理に基づけば正しいというわけでもない。人間は感情も味だ。趣だ。情緒あふれるすばらしい事象だ。好きだの嫌いだのも青春だ。秩序が論理だっているのが正しいのなら、恋だのなんだのというのは感情だっているのが正しいとさえいえるだろう。
 ところで、中二病を恥ずかしいと思っていたらとても小説は書けないので、何か物語を書こうとしている人は、それも正しさの一つかと、ほんのり受け入れてみると良いかもしれない。ちなみに、自分は恥ずかしい。何が正しさの神なるものを創ろうだ。汗顔無地だ。なんだこれ。
 だが、これをキッカケに、川天神・キアラシオを信仰すれば楽かもとか、ちょっとばかり救われたような気持ちになってくれる人がいたら、嬉しく思う。ひょっとすると、正しさの神なんてものは、110番すれば警察がすっ飛んでくるような、治安のいい、例えば日本のような国でないと信仰は難しいのかもしれないけれど。いなかったというのは、そういうことなのだろう。
 だとしても、ちょっとだけ、自分を含めた、今を生きている人々が、正しさを考えて、いろんな正しさをうまく混ぜて、追求していけたら良いなと思う。
 これまでのことをまとめてしまうなら、きっと、みんなはこんな難しい言葉を使わず、長文を並べたてずに、こう言うだろう。「真面目」で「誠実な人」のことかと。
 なにはともあれ、こうして小難しく、正しさだのなんだのと言って、理屈を付けなければ生きていかれない人間も、この世にはいるのだということを、ここまで読んでくれたあなたなら、もう知ってくれているだろう。それだけで、私はとっても嬉しく思う。ありがとう。