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記者ごときに世界観などない

よくマスメディアの記事を読んで、「くそみてえな記事だ」とか「読むに値しない」「つぶれろ」という批判をするひとがいる。
そうした読者の声は大半の場合ごもっともであり、いち記者としては読者があらゆる記事に対して批判的であってほしいと思っていたりもする。

はて、なぜこうした批判が起きるのかを自己批判的に考えてみると一つの解にぶちあたる。

それは「メディア関係者に大した世界観がない」ということである。大局観といってもいいかもしれない。
「この世界はかくあるべし」とか「こういう社会になるべきだ」という思想があまりない。

こういう思想をもてないのにも理由がある。記者が現場ではそれなりに忙殺されてしまって、ロクに情報の正確さを確認できないからだ(運が悪いと訂正になる)。
紙面上の情報はあくまで「早く」「正しく」「わかりやすく」伝えることが求められる。だから報道の結果としてどういうインパクトを社会に与えることができるか、社会がどう変化するかなんてことに文章を書いているさなかで意識を向ける時間は、現場の記者にはほとんどない。

こうしたことをいうと「お前が馬鹿だからだ」とのそしりもあろうがこれは仕方ない。自戒を込めて世界観がないということをここに申し述べておく。

こうした行為の結果として、記者としては世界観を持つということよりも「社会においてまだ誰も見つけていない隠れた問題を発掘しよう」「面白い話を書こう」という精神が生まれてくる。

これは大切なことで、佐藤栄作首相の家に核密約文書があったとか(読売新聞)話が出てきたりして、新たな真実がわかるということは意義深いことだ。
とはいえ、これが行き過ぎると慰安婦の問題とかを嘘なのにでっち上げてしまうこともあるので問題もはらむ。
何にせよバランスが肝要だ。

世界観がゼロとは言わないが、それよりもむしろ目の前の「当事者と自分しか知らない秘密」を公然のものとしてこの世界に晒すことができるという快感のほうが、社会変革の意志よりも大きくなってしまうのだと思う。
卑近な例でいえば、ある友達Aが自分にしか好きな女の子を教えてくれていなかった時、なぜかAの好きな子をみんなにばらしたくなるこころと同じようなものだと思えばいい。

「記者に世界観を!」といっても記者が変わるとは思えないので、むしろそうした記者が集めた細切れの事象の積み重ねをきちんと整理して、継時的に振り返るだけの機会がまずは必要なのだと思う。
新聞記事だけを読んで話が理解できたという人はどのくらいいるだろう。わかりにくくて仕方ないと思う人が大半なのではあるまいか。少なくとも私はそうだ。これはほかでもない、新聞の弱点であると思う。

テレビはそれをワイドショーという形で再編成しているので、わかりやすくビビッドな色をつけて伝えられるという仕組みだが、新聞には残念ながらそうした仕組みはない。
あってもスクープとかになったものを本にして記すくらいのもので、ほとんどの記事は忘却の彼方へと追いやられて仕舞だ。

そしてその整理したものに目を凝らして、まず何が起きたのかをちゃんと理解することからスタートしなくてはならないのだと思う。リアルタイムに追うことができていなくても、しっかりとかみ砕いたうえで次へ進んでいく…この繰り返しでしか、おそらく社会問題や政治、経済の出来事の歴史、プロセスを理解することはできないのではあるまいか。

そして、そのプロセスを理解したうえに、一人一人が世界観を形成せねばならない。どんな情報であれ、あくまで己の世界観の形成の手助けをする程度の力しかない。
世界観の形成の意志を他者にゆだねてはならないはずである。

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