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資本主義は結構合理的だなと思った話

資本主義はよくできていると最近感じる。

売れるものを作る人が増えていけばもうけるひとが出てきて、次第に値段は安くなる。
安くなったらみんなが買って、そのうちコモディティ化する。
売れないものは作る人が減って、産業そのものが淘汰されていく。

いま、新聞という「売れないもの」を作る身分として思うのは、いくら頑張っても給料が上がることはないという事実である。同じ給料でも仕事の量はあまりにも増えすぎて、文春報道よろしく人がどんどんやめてしまっているのが実態だ。

かたや、働き方改革で「残業をしすぎるな」という話になるので、適当に鉛筆をなめて残業時間を調整することになる。一部の人は月の後半の出勤簿で就業中に数時間も寝ていることになっていたりしたようだが、いよいよバカバカしいので適当に調整することになる。

当然、現場レベルでは「たいへんだ」「つらい」という話になる(だから人がやめる)。そもそも、売れないものをつくるということは、死ぬほど頑張っても給料は増えないということである。

まさにこれこそが資本主義であって、こういう「たいへんだ」という状況から人が逃げることで労働市場の適正化が図られていく。人間の素直な欲求に対応した、極めて合理的なシステムだ。

もっとも、これが「不況」となると、少し様相が変わる。
景気が本来なら良いはずの業界であっても、死ぬほど働いてももうからない仕組みになってしまうだからだ。要は、「たいへんだ」と思っても移動する先がなくなるのである。逃げ場がない社会とも言って良い。
もっともらしいことをいうのであれば、働くインセンティブがなくモチベーションが下がることになる。次第に会社の業績も落ちる。

こんなとき、経営層は「どうにかしよう」とやりがいやロイヤリティに頼ってマネジメントをする。
組織への信頼を失いつつある若手から見ると「頑張っても報われないんでしょ」と、冷めてしまう。残念ながら人に火がつかない。

情熱をもって、仕事を全力でやるんだ!という仕事観は、若手のうちに強くあるわけではない。
目の前の飯と家、そして少しの娯楽と快適な日々があれば、一般人の不満の大半は抑え込める。

何より、ロクにリスクテイクをしたくないから大きな企業のサラリーマンを皆が目指すのだ。別段やりたいと思わない仕事を企業がやれというからやるという、奴隷のような意識で働くのである。おのずから労働は自発性を失う。

こういう若者の考え方に対しては先人から、昔ながらの精神論を引用した突っ込みを入れがちだ。「気合を入れろ」「根性が足りない」「置かれた場所で咲け」「我慢しろ」「やりたくないこともやらないといけない」…そして挙げ句の果てに、「今の若者は…」だ。

ここに労働を巡る考え方の違いがある。労働思想を巡るジェネレーションギャップがあるなか、権力関係から自動的に労働には「年配者の思想」が非論理的に採用されることになる。

ちなみに、ウェーバーによれば権力とは

ある社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない

M.ウェーバー『社会学の根本概念』p.86

としている。
ダールは、

My intuitive idea of power, then, is something like this: A has power over B to the extent that he can get B to do something that B would not otherwise do.(私の「権力」に関する直感的な発想は、大体こんな感じである―BがさもなければしなかったであろうことをAがBにさせることができる限り、AはBに対して権力を持つ。

Dahl.R(1957) The Concept of Power in Behavioral Science 2, p.202~203

と権力を定義する。

「やりたくもない仕事」をおカネという「ニンジン」をぶら下げられながら上司や組織の命令でやるということは、まさしく「若者がさもなければしなかったであろうことを上司が若者にさせることができる」ことだ。そしてそれは若者の抵抗を排することができる。

こうして、伝統のように年配者のイデオロギーが労働の世界に広がる。それが連綿と受け継がれて、再生産されていく。

労働の在り方を変えようという人も少ないなかで、そうした変革の意志を失って”逃走”する人も増えてきた。すなわちニート、働かない若者だ。

確かに不況にあっては「ものは売れない」=「頑張っても報われない」のだから、頑張らない方が良い、という思想になるのは論理的だ(もちろん、誰かにしわ寄せが行くのでニートが増えることは良いことだとは思わない)。でも、そんないまだからこそ、逃走に堪えうる思想の胆力が変革には求められているのではないのか、とも思う。

日々の労働を経て「たいへんだ」と文句を言いながら、刻一刻と死に向かっていくことは幸せなのだろうか?

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