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自分との対話って大事よね

「内省」ということばがある。自分自身の考え方や思い、哲学と向き合うことを指している。もっといえば、自己対話という言い方をしてもいいかもしれない。

内省ができるのは、ある程度の時間がある時である。時間があって特に何もやることがない時に「そういえば自分って…」などとふと考えるものだ。
子育てなんかをしていると一生懸命子どもの世話をするので、その間に「自分の人生って…」などと考えることはまずない。子供が寝静まって布団に入ったときや、仕事が終わって帰路につくときなんかに内省が始まるのがふつうだろう。

思うに、内省をすると大体「自分の人生っていったい何なのか」という問いを投げがちである。
日々それなりに頑張って生きているけれども、生きることに何の意味があるのだろうなどとそこはかとない虚無感にさいなまれるものだからである。
そんな虚無感に襲われるのは、おそらくそこに先々を見据えた意志や展望がはっきりとした形で自分の中に見えていないからであり、だからこそ内省するということに価値はある。

内省の結果たどり着くのは、己の使命感や問題意識といったものだ。譲れないもの、こだわれるものといってもいい。
例えば、
「自分の人生っていったいなんだろう」
→「振り返ると、趣味でも仕事でも文章をよく書いていたなあ」
→「そうか、文章を書くことが人生の軸なんだ」
→「じゃあどんな文章を書くことを望んでいるんだろう」
→「エンタメってよりは硬派な文章かなあ」
→「硬派といっても例えば?」
→「政治分野なんかは書いていてやりがいを感じるなあ、でもなんで?」
→「あまり世の中に見えていない、政治の力学をまざまざと感じられるのは面白いな」
→「となると政治力学など、世の中でフォーカスされていない世界の仕組みを知ることが好きかも?」
→「じゃ、隠された社会構造を学んで、それを知らない人たちに文章で伝えられたらやりがいあるな」
→「それ、伝えたところで何になるの?」
…と、こんな調子である。やり方は別に決まったものがあるわけではないけれど、大体「なんで?」とか「どういうもの?」とかでゴリゴリ自分を詰問することで、一定の深度までたどりつくものだ。

人生のすべてが自分の思い通りになることがない以上、必ず人生にはどこかに妥協点が生じる。
人によっては、育児をしているとか家庭の事情とかで、人生の99%を何かに譲らねばならないひともいるだろう。それでも、たった1%でいい、内省を通じて自分自身が譲れぬものに出会い、それをよりどころにして胸の中に抱きつづけられる人生は、それなりに幸せなのではないかと思う。

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