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今、歴史的なことが起きているという自覚はあるか
振り返ってみれば、ウクライナにロシアが侵攻したのは2月の終わりである。いよいよ半年以上が経つものの、なおも事態の終息がみえない。
遠くにいる我々にとっては、いつものテレビ報道に紛れ込むようにウクライナの情勢が伝えられたり、伝えられなかったりしている。
普通に生きていれば、テレビで見て「ふむ大変だな」というくらいのものではあるのだが、よくよく考えてみると結構すごいことが起きているという自覚はあるだろうか。恐ろしいほどに平凡な日常が、我々の周りには存在しているにも関わらず、である。
過去を振り返るとき、ひとはそれを脚色して語る。
2001年の米国での同時多発テロのこと、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災などがあったときのことを思い出してみればわかる。
たくさんの苦労や苦しみがあったことは否定しない。
でも、それと同時に日常があったことも事実だ。
「この世界の片隅に」という作品がある。
大東亜戦争に突っ込んでいく日本の中に、そして原爆が落とされたその瞬間にも、ちゃぶ台を囲んで飯を食い、眠るという平凡な日常があったことを強く意識させられる作品だ。
しかし、今という視点から過去を語ろうとすると、途端に日常が破壊されてしまっていたかのような錯覚を抱く。
東日本大震災で避難を余儀なくされたという、非日常のように知覚してしまうそれは、被災した人たちの日常であったのかもしれないのだ。
戦争は悲惨だった。確かにそうだ。でも、そこにも日常はあった。
地震は悲惨だった。確かにそうだ。でも、そこにも日常はあった。
事件は悲惨だった。確かにそうだ。でも、そこにも日常はあった。
まさに、歴史というのはそういう日常の中に存在しているのであって、日常から隔絶した「特別な非日常」がそこにあるわけではない。
では、過去に対するまなざしだけではなく、今ここに生きる我々の世界へのまなざしはどうなっているか、ということに意識をつけねばならないはずである。
一日一日が消費されていくように存在してはいないか。
そこに歴史的な出来事が起きているという認識はあるか。
日常の連続の中に歴史が生まれているという認識はあるか。
だからこそ平凡な日々を生きることに慣れすぎてしまうのが怖い、と思えているか。
私たちが歴史だという自覚があるかどうかを問い直さねばならないのである。
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