身のほどを知ること〜私たちは何者でもない〜
SNSをみていたりすると、有名人のツイートが勝手に炎上したりしてワイワイとにぎやかになっていたりすることがある。
そのなかに批判じみたものなんかがあったりして、読んでいて「ふーん」と思いながらふと、SNSというのはこれまで会うこと・話すことすらままならなかったような有名人に対して批判をかませる空間であるということに気づいたのである。
その権利を大いに利用して批判をしている人間は星の数ほどいる。
ただ、逆にこういうたくさんの声を受ける有名人の立場になってみると、こうした炎上に対して書き込みをしてくる連中に対しては「何お前、てか誰?」というのが率直な実感なのではないかと思う。
何者でもない私たち一般人が偉そうに講釈をたれたり、偉い人に絡んで対等になったような錯覚を起こしてでかい口をたたいてしまって、一度誰かからリプライがあったりすれば自分が何者かになったかのような錯覚を起こしてしまう。
本当は取るに足らない存在であるにも関わらず、だ。
2022年のM-1グランプリで優勝したウエストランドは「ぶちラジ」というラジオ番組のようなものをかれこれ10年くらいやっている。そこでいつの日だったか「お前らリスナーは手紙を読んでもらって何者かになった気になりやがって。俺たちパーソナリティがうまく料理しているだけなのに気づいていないんだ、お前らは何者でもないんだ」と漫才よろしく井口さんがひたすらに罵り続けていたのだが、これは井口さんの指摘と非常に整合性がある。
ほかでもなく、そこらへんの町の人に「私のこと知ってる?」といって「知らない」と全員から言われるのであれば、自分は何者でもない「そこらへんの町の人」にすぎない。もちろん有名であればそれでいいというわけではないが、大半のひとは何でもない人間なのである。
自分が小さな存在ほど、でかいことを言いたいのが人間だし、偉い人にも何か物申したくなるのは実に自然な心性だ。それでも自分がいったい何なのかをちゃんと自覚しておくことは結構大切なことだと思う。
岸田総理のツイッターなんかを見ると誹謗中傷の嵐というかもう見ていられない感じになっていて、もはや国民のサンドバッグのような使われ方をしている。
まあ政治家は我々一般人とは異なり異常なほど打たれ強いのでこうしたことが問題になることはほぼないわけだが、一般人がこうした批判を好き勝手展開している状況は何とも妙な感じがしてしまう。
いうまでもなく言論は自由だが、言ったからと言って世の中が変わるわけでは必ずしもないし、より現実的に実現を目指す手はずを誰も整えていない状況がそこにあるからこそこうなっている。増税を批判しても、財務省にまで根回しに行ける人はなかなかいない(門前払いになるのが関の山だが、入れたとしても本丸の前の前の前くらいで、コテンパンにやられる)。
となると、一般人にすぎぬ私たちは単に意見を発信するという大義名分のもとでただただ政治家を批判したりして留飲を下げているに過ぎない。結局のところわたしたちには現実を変革するだけの力がまだないのである。
哲学者のパスカルが「力なき正義は無力であり、正義なき力は非道である」という言葉を残しているように、正論であっても力のない人間が発したところでそれは無力である。現実を漸進的に良くしたいと思うなら、何者でもない私たちは少しずつでも力をつける必要がある。
力をつけるために炎上に加わることは果たして合理的であろうか。改めて問い直すべきである。
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