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諦めたら、夢はかなう、かも。
「夢」というものに純粋な期待を寄せ、そしてそれを追っている大人は少ない。
社会人は仕事という毎日同じタスクを繰り返す生き物だ。日々が消費されていくような、何とも言えない虚ろで平凡な日常に耐えるように生きている。
そしてそのうち、時間とともに現実と折り合いをつけて、夢をあきらめていく。いつの間にか、「昔はよかった」と、過去を顧みることばかりにいそしみ、未来を見つめる目を失う。
詩人である寺山修司は「さらばハイセイコー」という作品のなかで、
ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても すべてのレースは終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には 次のレースをまちかまえている百万頭の名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で 追い切りをしている地響きが聞こえてくる
という一節を残している。
「ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない」
この言葉は、夢という未来に背を向けた大人には、苦々しい響きを持っている。
「わかってるよ」
という言葉を口走りそうになりながら、夢を見ることができなかった己の無力さに立ち尽くす。
もっとも、それが己の意志によるものばかりではない、ということも付言が必要だ。致し方ない理由から夢をあきらめたひともいる。
銀行員時代、転職を決めて支店を去るときに飲み会をしてもらった。そのとき、支店長はじめ先輩社員といろいろと話をしたのだが、営業のトップであるおじさんの社員に、
「いやあ、ぼくもね、若いころは日経とかに行って記者とかやりたかったんだよ、うらやましいなあ」
と言われた。詳しく聞いてみると、若いころ、転職でもしようかと思った矢先に親御さんが倒れてしまい、家のことで時間を取られるなかで転職どころではなかったのだという。当時の時代背景からしても「親が倒れているのに安定した地位である銀行員を捨てる」などという選択肢を許すひとはほとんどいなかった、と教えてくれた。
「若いころ、自由に夢を追うことができるというのは、本当に素晴らしいことなんだ」
そう、そのおじさん社員は言ってくれた。
先日実家に帰り、母と話をした。
私の母親はもともと保母さん、いまでいう保育士というやつだ。かわいかろうが憎たらしかろうが、一切差別せず子供に接していた、と時折自慢していたのが幼少期のころの私には印象的で、なぜ保育士になったのかなど、そういったことについて聞いたことはあまりなかった。
小さいころであれば母親と立ち入った話などほとんどしなかったので、「なぜ保育士になったのか」ということなど、いろいろ質問をしたときに、
「わたしは本当は、保育士よりやりたいことがあったんだ」
と話した。てっきり第一志望で保育士になったものと考えていたので、これは驚きだった。
聞いてみると、「もう少し大学とかにいって、英語を勉強したかったね」と話していた。60歳を超えた母親である、戦前生まれの祖母からは当然「女なら安定した仕事につくか、資格をとるなりして手に職をつけろ」と言われるのが当たり前だ。
時代の中で、自分の周りの環境の中で、否応なしに夢を捨てざるを得なかった、というひともいる。
もちろん、厳しい言い方をすれば「最後に『あきらめる』と決めたのはあなたじゃないか」といえるかもしれない。でも、
「もし転職を決意したあのとき親が倒れていたら―」
「もし昭和時代に生まれた女性だったら―」
と想像すると「夢を追う」なんて選択肢が取れたかといえば、正直そう言い切れる自信はない。
もっと言えば、靖国神社に祀られている特攻隊の方々に、誰が「赤紙のひとつ破り捨てて、夢の一つくらい追ってみろ」と言えるのか。國を護ろうと命を賭けた人たちである。もし言える人がいたらその人は正真正銘の馬鹿だ。
だからわたしはたとえいま夢を追えているとしても、そういうひとに「最後に『あきらめる』と決めたのはあなたじゃないか」とは言えない。
翻って、我々のことを考えてみれば、非常に生きやすい時代になったと思う。労働市場も流動化して、すこぶる転職もしやすくなった。女性であっても堂々と夢を追えるし、昇進だって現実的な話題だ。夢だって勝手に叶えろという時代だ。世間の目だって昔ほどそのまなざしは強くない。そして目の前には腐るほどの飯がある。生きることに拘泥しなくたって、そう簡単に死にはしない。ほんとうに、充実して、自由になった。昔に比べればどれだけ便利になったのか。どれだけ楽になったのか。
しかしそうしたなかでも、ひとは不満を漏らすのだ。
ちょうど、「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」という言葉のとおりだろう。自分ができない理由を社会や政府、国に求めて、それを正当化する癖が人にはある。どんなに社会が改善していっても、課題が尽きることは決してない。
もし夢を叶えたい、と思うのなら、国や政府、社会に期待することなんて「あきらめた」方がいい。
自由で便利な現代社会で、政府や国に文句を言いたいなら、自分を変革することもなく文句をたれ流していればいい。そういうひとは夢の一つもかなわないまま、「何者でもないもの」として死んでいくだけだ。夢もないまま、自分の人生に対して”すら”未来を考えることをやめて、その場その場で目の前の現実を即時的に消費して死ねばいい。まさに、「イマ、ココ」を生きるだけのマシーンとして、その生涯を終えればいい。
それもまた、人生のひとつである。
自分より大きなもののために行動することは大切だが、それに期待するのは間違っている。国を作り上げているのは国家という抽象的な「何か」ではない。我々国民のひとりひとりである。ならば、我々が立ち上がらねば国家も倒れる。
これは神輿を担ぐ人が少なくなって、乗っかる人が増えたような状態とでもいえばいいだろうか。当然、担ぐ人が少なくなっていけば、神輿ごとつぶれてしまう。人生、頼りになるものなど己しかいないのである。
己の肉体と意志を鋭く強靭にしていった先に夢があるなら、己以外の他者への期待など捨てた方がいい。
期待など捨てろと言われて絶望をした人もいようが、哲学者のエマーソンは”The Wisdom & The Philosophy”のなかで、こんな言葉を残している。
「希望は底の深い海の上でなければ、決してその翼を広げない(Hope never spreads her golden wings but on unfathomable seas.)」と…。
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