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15年ぶりに全国大会のメンバーで水泳のリレーを組んだ話【下】
指を攣ったときにはターンで壁を蹴る時に指を伸ばしてなんとかするしかない。懸念材料だったバタフライはとりあえず抑えながらキックも控えめにしのぐ。もともと苦手なバタフライがなおさら遅くなった。
ターンはうまくいき、ひとまず指は治った。一つ安心と思いきや、背泳ぎから平泳ぎのターンで見事に壁に激突。モタモタしてタイムロス。その後は一生懸命泳いだだけで何も覚えていない。
泳ぎ終わった後は吐きそうだったし、何よりタイムも大したことはなかったが、それでもなんだか、気持ちよかった。
仕事のなかでスポーツのような緊張とエネルギーの発散と、そして弛緩と爽快感を感じることなんてほとんどない。
まがりなりにも社会人というものになったときに、知らないうちに失っていたものにたくさん出会ったレースだった。
少し体を休めたらリレーだ。全員の想定タイムを足すと57秒くらいということでいったんはそのタイムを目指そうということになった。とはいえこちらはひとり25mなので後先考えず突っ込めばいい。
ほか3人の力がメインではあるが、想定のタイムをだいぶ下回ってゴールした。
言葉にするのが野暮なくらい、快感だった。
終わった後は4人で簡単に食事をとる。昔話をしたり今の話をしたり、なんてことのない時間だった。
そういえば、小さいころは一生懸命泳いだせいか、帰りにどこかによって食事をするなんて面倒で、気が進まなかったことを思い出す。なぜか機嫌が悪くて、さっさと家に帰りたいと心から思っていたものだ。
1時間半くらいで店を出て「またね」と、いつものように別れた。
バラバラだったはずの各々の人生が「水泳」という一つの場所で結びつき、そして私が一番はじめに「水泳」に別れを告げ、ひとり、またひとりと競技としての水泳を離れた。
かつて私が中学生のころに水泳をやめたとき、私の口からも「またね」とは言えなかった。それはどこかで会うことができるなんて、本気で思っていなかったからだ。
それでもまた15年もの時を経て、再び4人は「水泳」でつながり、そして「またね」と別れられる関係になっていたことにふと気づいたのである。
私があの日、二度と交わらないと思った糸はいつの間にか誰かの手によって撚り合わせられ、そしていつの間にか縁という太い糸になっていたのだろう。
そして、そんなちょっとした人とのつながりが縁であることに気づかせてくれたのは、私たちが大人になりゆく時間そのものだったのかもしれない。
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