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Mr.Childrenがクリエイターだと気づいた夜のこと

私の嫁さんはMr.Childrenが大好きである。
友達にもファンが多いようで、時々オンラインライブを見たりしながら家で騒いでいることもある。

ミスチルについて私はなんとなく知っていたくらいでそこまで詳しいわけではなかったのだが、あるとき嫁さんがライブのチケットを当てたというので一緒に行こうということになった。

あまりにも知見が不足している私のために嫁さんは「ライブの予習をしよう」ということで、食事の時間なんかにミスチルの曲を数曲聞く時間ができた。
「んおー」とか「飯うめー」とか言いながら適当に聞いていたため曲名も歌詞も結局インプットできなかったのだが、なんとなく旋律だけは覚えて当日を迎え、日産スタジアムに向かった。

聞くところによると、会場にはおよそ7万人が収容されているという。
音楽だけでこれだけの人を集め、そして熱狂させるミスチルのカリスマ性はすさまじいものがある。
私が日産スタジアムに来ても誰も見向きもせずにおしまいだ。素人なら、10人集めるだけでも大変である。

ライブが始まると、なんとなく聞いたことのある曲が次々と流れてくる。よく知らなくても「なんか知ってる」という曲が多いというのは、なるほど確かに国民的アーティストである。
曲に合わせて1階席から2階席からアリーナ席から、皆々一様に手を振っている。手拍子のリズムも曲によっていろいろあるようだ。
3時間ちょっとのライブだったが、あっという間に終わってしまった。
ただ歌を歌うというだけではなく、映像や光なども駆使しており、端的にいえば「魅せるライブ」だったなあ、という実感だった。

そして、一番強く感じたのは、一般のひとが生きていた世界とは別の閉じた世界があの日産スタジアムにはあった、ということだ。

要は、ミスチルは「世界を作っていた」のである。


「クリエイター」なんて言葉がある。何らかのコンテンツ(音楽とか漫画とか)を作る人を指すのが一般的だ。
ただ、クリエイターという言葉は英語で"The Creator"と表現すると「神様」という意味にもなる。この世界を作った存在、ということだ。

真のクリエイターとはコンテンツを作るだけの人間ではなく、コンテンツを通じてそこに世界を生み出せる人なのではないか。
歌がうまいから歌手として立派だ、というわけではなく、歌を通じてそこに世界を作り上げることができるのかどうかが、クリエイターかどうかを分けるのだろう。
クリエイターはたくさんの人間を世界に巻き込み、そして熱狂させることができる。ミスチルはその意味でアーティストというだけではなく、クリエイターでもあるのだと思う。嫁さんも含め、熱狂的なファンが多いのもそのせいだ。


これが分かりやすいのが小説家だ。
小説はまさしく、あの本の中にフィクションの世界がこれでもかと書かれている。すなわち、本とは一つの世界であり、人を熱狂させる。

フランスのG・バタイユという哲学者は「文学とはやっとのことで再発見することができた子供の時代のことなのだ」という言葉を残している。
考えてみれば、子供には支離滅裂な言動や行動も多い。
現実とは異なったもう一つの「自分だけの世界」が存在しているように見えるし、自分自身も現実と隔絶した世界を当時持ち合わせていたような気もする。
子供はいつの時代もクリエイターなのである。

はて、大人になるとだんだんと、世界というのはこの現実世界だけ、1つだけしかないという認識になっていってしまう。
こうして色鮮やかな夢の世界を失い、仕事という”なんてことのない作業”の繰り返しの中で、この世界から”彩り”がなくなり、世界はモノクロームになっていく。
世界に色を取り戻すために、私たちはまず自分なりの世界観を持ち、世界を(どんなに小さくても)どこかに作る意志を持つ必要がある。

そのヒントをくれるのは、ほかでもない”子供たち”なのだ。

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