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生きる時間は後悔しないための時間なのかも

最近よく、YouTubeで子供が病気に苦しんで亡くなる、というドキュメンタリーに出会う。
私は幼年期に小さな病気で入院していたのもあって思わず感情移入してしまうのだが、数日であれ親に会えないというのは哀しいものだ。重篤な病気とあればその期間も長く、子供の味わう哀しみはいかばかりかーー到底想像もつかない。

また、年を重ねると親の立場から考えることもできるようになる。子供を看取ることになるというのは親になった時想像もしていなかった出来事であろう。悲しむいとまも無く事実を直視せねばならぬ境遇には、どうにも胸が詰まる。

きっと自分より長生きしてくれるであろうと信じた子供でも、病気で亡くなってしまう。いくら医療が進歩したとは言え、ある程度はこういうことが起こってしまうのはいたく残酷なものだと思う。

こんな風に考えてみると,人はいつでも死んでしまうのだなということを意識させられる。
子供だろうが大人だろうが、生涯を終えるタイミングは必ずやってくる。「そのとき」に向けて一体どのような生を積み重ねるのか、それが日々問われているのだろうと思う。
もっと言えば,生きる時間とは死ぬときに後悔しないようにするために設けられた時間なのではないか、ということだ。

有史以来たくさんの人が死んでいった。
その中で誰もが後悔なく死んだわけではない。「あんなことをしておけば」と悔やむことは多いようだ。
さすれば、心身が充実したいま求められているのは日々の挑戦であり、「やってみようかな」「やろうかな」と思っていることを確かに行動に移すということなのだろう。換言すればたった1日を後悔なく生きることである。


「五省」というものがある。これはかつての海軍の幹部養成学校で読まれていた5つの反省事項だ。「面倒くさがらず一生懸命物事に打ち込んだか」みたいな項目が並んでいる。
パッと見るとどれもできそうなのだが、実際はなかなかできないのだ。自分の1日がいかにたるんでいるかを痛感させられる。

死を迎える時に「もう生きるのはたくさん」と思えるというのが、実は理想の人生と言えるのかもしれない。そのためにはまずは流れゆく日々の終わりにふと立ち止まって、過ぎていった時間に少しでも思いを馳せることが肝要である。
そして今日という1日にもまた、親に看取られて天国へ羽ばたいた子供たちがいることも、私たちは忘れてはならないのだろうと思う。私たちの人生はかけがえのない「見知らぬ誰か」の死の裏側にあるのだ。

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