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意志もなく時間が過ぎる日々たちに

サラリーマンにとっての仕事とは、究極的にいうと「人の言うことを聞くこと」に尽きる。
仕事はどこからともなく上から降ってきて、そしてそれをいかに効率的に処理するかが問われる。その処理の過程で生産性の高さや能率的なやり方なんかを自分なりに(時には会社をあげて)編み出すことによって、組織全体の生産性が高まったりしていく、という話である。

それだけに、サラリーマンとしての人生とは、意志を介在させなくとも過ぎていく時間そのものでもある。
上から言われたことをやり、そして淡々と時間が過ぎ、いつの間にか定年…という具合だ。

日々記者として記事を書く中にあって、「あれを書け」「これを書け」と言われることはしばしば(というかほとんど)なわけだが、その過程で徐々に自分自身が意志を剝奪され、そしてその剥奪されているという事実にも気づかずに生きていたことをふと自覚するのである。

人生とは選択の連続でもある。
家を買うとか結婚するとかいろいろある。いずれをも経験した身として言うと、それらは大体が「人生には突如意志を求められる瞬間がある」ということを示唆しているように思う。

人間だれしも「どうすんの?」と言われると「うーん」と悩んでしまうものである。意志を求められてすぐに決断を下すことはできないことではないが、準備が必要だ。

それだけに、意志を求められない人生というのは非常に楽でもある。
一日の中で何となく、漂うように時間だけが過ぎてもなお、目の前の日常が何ら揺らぐことはない。
考えたり悩んだり決めたりしなくても、別に人生は前に進んでいく。これほど楽なものはない。
人間弱いもので、意志を持っていばらの道を歩まねば、「楽なほうへ楽なほうへ…」と体が傾いていってしまう。

小学校のときの校長先生だったか、卒業式か何かで「悩んだ時には大変な道を行きなさい」という言葉をくれた記憶がある。
そのときは「人生そんなもんか」と思うくらいだったが、仕事をする身になってみると「悩むまでもなく人は楽なほうへと向かおうとする」ことを否応なしに意識させられているわけだ。
校長先生はきっと意志を持って厳しい決断をする人生を歩め、という意味で「大変な道を…」といってくれたのかもしれない。

頭を使って考えて決断することは、生きているときにしかできない特権だ。
我々はその天賦の特権を、わがままなくらい大いに享受することが求められているのかもしれない。


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